魏志「倭人伝」は無かった?! 卑弥呼と邪馬台国                 サイトの歩き方」を参照してください

  「魏志倭人伝」の書き出し部分。

のっけから、何時か何処かで聞いた事があるような山っ気の多い見出しを立てたのは、奇をてらい読者の関心を惹こうとしただけで、別段深い理由があってのことではない。ただ、まんざらウソでもないことは確か。何故なら、誰もが古代の日本を語るとき引き合いに出す中国の歴史書『魏志』には『倭人伝』という独立した「伝」など存在していないからである。「そんなはずはない!!有名な誰それ先生の論文や古代史の専門家たちも皆引用しているではないか」という反論が直ぐに返ってきそうだが魏志『倭人』伝は、何度も言うようだが存在していない。皆が、そのように便宜的に呼んでいる物の実体は『三国志・魏書・東夷伝・倭人の条』という三国志の中の「魏書」の極一部分の文言で、当時の中国から見た我国は、一つの伝を立てるほどの事もない東夷(中華思想では世界の中心が中国であり、東夷というのは『中国から見て東の方角に位置している未開人]』の国という意味。時代劇などの台詞でお馴染みの「南蛮」も、もともとは中華思想から出た言葉で、日本が外国に対してこの言葉を使うこと自体オカシイ)の1蛮族でしかなかった。以前、何かの書物で、その頃の『倭人』を描いたものだとされる人物像を見た記憶があるのだが、それは何とも言い難い情けない格好であった。

  邪馬国も無かった!  踊り歌う

閑話休題、古代のロマンなどという、ありきたりの形容詞で飾り立てるのも面映いが、ともかく女王・卑弥呼には根強い人気がある。それはなぜか?それは彼女の住んでいた、であろう「邪馬台国」の場所が特定されておらず、とかく謎が多いからである。ついつい「邪馬台国」と書いてしまったが、この国名も本当は正しくない。何故なら「倭人」伝には「邪馬台国」という名前の国が記述されてはいないからである。では、何という名前になっているのか?正しくは「邪馬」である。だから卑弥呼が住んでいた国は「やまたい国」ではなく「やまい(やばい)国」ということになる。どうも我々には聞きなれないというか、異様な感じのする国名だが、この国や人そして官名や地名など、すべての固有名詞については、当時、魏からやってきた(より正確には半島の帯方郡から来た)外国人が、倭人の発音する言葉を『聞えた音に近いと思われる漢字にあてはめた』ものだと考えられるから、二重の意味で不明確さを払拭できない。つまり、噛み砕いて言うと、外国人が当時の倭人の発音をどの程度の正確さで聞き分けていたのかが分からなければ、「倭人」伝に出てきている名詞の類は判読の仕様がないのである。また、細かいことに拘るようだが「倭人」伝は、その名称の所以ともなっているように、その冒頭で(最初の画像参照)、

    倭人帯方南東大海之中  依山島為国邑

と明確に記述の対象が「倭人」であることを示しているのだが、その直後の一節では、

    従郡  循海岸水行  歴韓国  乍南乍東  到其北岸狗邪韓国  七千余里

と書いて、あたかも「倭人」と「倭」が全く別のもの(国、地域?)であるかのような表現をしている。単純に考えれば「倭人」と呼ばれる集団(が住み支配する地域)が一方にあり、その国の一つが「倭」であると解釈するのが妥当なのだろうが、伝を書いた者の意識の中に「倭人」の国が「倭」以外にも多数存在している、という前提があったように思われてならない。文脈を素直に取れば、半島の南端付近に「倭」と呼ばれる国があり、その東南方向の大海中に「倭人」の国があることになる。つまり「倭人」が国名そのものを指している可能性もあるわけです。僅か3行の間に両者を書き分けた著者の意図がどのへんにあったのか、興味のある方は一度原文にあたり、推理してみてください。

   卑弥呼の時代        PR

では、ほぼ同時代(3世紀の終わり頃)に書かれた一級の文献資料がありながら、どうして「倭人」の女王・卑弥呼が住んでいた国の位置が特定されないのか?一言で片付けると「倭人」伝の記している距離・方角どうりに進むと日本国外、遥か海の彼方に飛び出てしまうからである。そこで昔から、二千文字足らずの解釈をめぐって『論争』というか、論議が絶えない。在る者は距離が違うといい、また別な人は方角を間違えたのだと言い、そして又又ある人は距離・方角の両方とも間違っていると言う。そんな塩梅なのです。このページは学問的な検証の場ではありませんから、そのような偉い先生方の難しい研究はさておいて「倭人」伝などが教えてくれる3世紀の倭人の世界とは一体どんなものだったのか、といった点に的を絞って見てゆく事にします。そこで登場するのが例の年表、嫌がらずに見てください。中国で記された各種の文書から、西暦1〜3世紀の有様が仄見えてきます。

 西  暦 出     来     事 資料の名前
57   建武中元2年 漢の光武帝が「委」に金印漢委奴国王)を贈る
 楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来り、献見す。
 漢書・地理誌
 建武中元2年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫  後漢書
107   倭国王師升らが後漢に朝貢
 170頃  倭国大乱(桓霊間倭国大乱  更相攻伐  暦年無主)  両帝の在位期間は147〜188年
 其国本亦以男子為王  住七八十年倭国乱  相攻伐暦年  乃共立一女子為王  名曰卑弥呼  魏書
184   黄巾の乱
204   公孫氏が帯方郡を設置する
220   後漢が滅亡、が興る
221   蜀が興る
222   呉が興る
237   公孫淵、魏と対立し「燕王」を自称する。
238   8月  魏が公孫氏を滅ぼし、半島の支配を確立する。卑弥呼が魏に使者を派遣
 景初2年6月  倭女王遣大夫難升米等詣郡  求詣天子朝献
 景初2年12月  今以汝親魏倭王  假金印紫綬(詔書)
 魏書
239   景初3年正月1日  魏の明帝が急死、斉王・芳が即位
 卑弥呼が魏の明帝より金印(親魏倭王)を贈られる(現物が届いたのは翌年)
 又特賜汝紺地句文錦三匹  (中略)  銅鏡百枚  真珠鉛丹各五十斤
240   魏が帯方郡の建忠校尉・梯儁らを倭国に派遣。
 正始元年  太守弓遵  遣建中校尉梯儁等  奉詔書印綬詣倭国  拝仮倭王
 正始元年正月  東倭重訳納貢  難升米に銀印青綬を授ける  晋書・宣帝記
243   卑弥呼が魏に使者を派遣
 其四年  倭王復遣使  大夫伊聲耆掖邪拘等八人
 魏書
244   2月〜5月  魏は蜀を攻撃、倭の戦乱に介入できず?
245   正始六年  詔賜倭難升米黄幢  付郡仮授
246   正始七年  魏、馬韓と戦う、帯方太守・弓遵が戦死。半島全体が混乱状態に陥る
247   魏が塞曹掾史・張政を倭国に派遣
 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素  不和
248? 卑弥呼死去  (註:この年、日本で皆既日食)
卑弥呼以死  大作冢  徑百余歩  徇葬者奴婢百余人 更立男王  国中不服  更相誅殺  当時殺千余人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王  国中遂定  政等以檄告喩壹與
263   司馬昭が魏の相国に就任する。蜀が滅ぶ。
265   8月司馬昭が亡くなる。  12月魏が滅亡、晋の建国
266   倭国が西晋に使節団を派遣  晋書
285   陳寿(233〜297)により「三国志」が完成

    倭国大乱(武装した埴輪の出土例は多い)    

表には必要だと思われる、極々一部の資料だけを載せてみました。読みづらいかも知れませんが、文字から受ける感覚を大切にするため、あえて漢文のままにした部分もあります。さて、何が見えてきましたか?順を追って年表をみれば、凡そ次のような事柄が明らかになります。

    1  1世紀中ごろから2世紀初め頃にかけての時期から、既に倭国の王(と自称する者)が大陸に朝献していた。

    2  2世紀の後半に倭国内が大混乱し、その結果「女王・卑弥呼」が誕生した。

    3  卑弥呼は半島の支配者・公孫氏と外交関係を結んでいた(臣従していた?)

    4  公孫氏が「燕王」を自称したことを知った卑弥呼は使者を出したが、公孫氏が滅んだため急遽・魏に朝献した。

    5  永年敵対している狗奴国との戦いを有利に展開しようと卑弥呼は魏に援助を要請、魏は使節を送り応えた。

    6  卑弥呼没後再び倭国内が混乱したが壹與を女王とすることで国中が安定した。

これらの点を基に要約してみると、漢の時代に百余りの小国が分立していた倭人社会は、大きな戦乱の時代を経過する中で、独りの女性・卑弥呼を共立することで、やや、まとまりのある連合国家の体裁を整えるようになった。そして、半島にも深い繋がりを持つ卑弥呼の国は、当時の実力者・公孫氏と結ぶ事で大陸文化などの移入も積極的に進めていたのだが、公孫氏が大陸の新興勢力である魏に屈したことを知り、魏との直接交渉に全力を傾注した。それは、連合国家体制に異論を唱えていた狗奴国との対立が厳しさを増し、戦闘状態に突入することが明らかとなってきたからに他ならない。卑弥呼は魏の使節を迎えることにより面目を保ったが、その寿命には勝てず自国の勝利を見ることなく他界した。「倭人」伝の『以って死す』という表現を、どのように受け止めるのか論議のあるところですが、文の流れからすると唐突に死去したのではないように感じられます。ただ、女王の死に直面したにしては緊迫感が伝わってきません。なお、この「以って」を「既に」と解釈する人もあります。

卑弥呼の国の官名は外国譲りだったのか?  卑弥呼の鏡?

卑弥呼が連合国家を維持してゆく上で、半島の実力者あるいは大陸の魏と外交関係(実体は朝献貿易です)を持とうとした姿勢には、1世紀の倭国王たちが行った方針を踏襲しているようにも見えるし、彼女が自己の正当性を魏に求めた背景には、それなりの理由があったに違いありません。そして、それが彼女の出自に関係しているのではないかと推理できなくもない。「倭人」伝の言うように「倭」国が半島の中に存在し「倭人」の国々が日本列島中に幾つもあったのなら、卑弥呼の本貫の地が半島あるいは大陸の何処かであった可能性は十分にあると言えます。もっと言えば中華思想を基盤とする国家との付き合い方を十分熟知していた訳です。

では、そのような卑弥呼の国と、時代を経た大和政権との繋がりはどうなのか、ということになりますが、結論めいた言い方をすれば『ほとんど繋がりはない』でしょう。邪馬壹国が大和に直接結び付くものであれば、その伝承がに反映されていなければなりませんし「倭人」伝が教える倭人たちの国名や官名あるいは固有名詞のほとんどは、倭語の音訳という不利な条件を加味したとしても、あまりにも後の時代のそれらとはかけ離れた様に思えてならないのです。その最もよい例が卑弥呼と、対立していた狗奴国王・卑弥弓呼という二つの固有名詞です。なんの予備知識も無いとして、この二つを並べてみた時、皆さんならどの様な解釈をされますか?

        卑弥呼    卑弥

見たとおり二人の名前で異なっている部分は『』という一文字だけです。二人とも王の名前である訳ですから、幾つかの推理が成り立ちます。その一つ目は『卑弥』の二文字が尊称を表す固有名詞ではないのか、と言う考えですが、そうであれば「卑弥呼」と考えてきた女王の名前は『呼』であり、男王の名前が『弓呼』ということになります。どう発音するのかは置くとして名前が一文字の呼(コ)だけというのはいただけませんから、やはり尊称説は無理があります。二つ目の考え方は、この様に記述された文字が二人の「名前」を記したものではなく、王固有の呼び方(例えば、後の時代の表現を借りればミコト、オオキミといった名称)ではないのか、という見方です。こちらの考え方であれば女王・男王の呼び方が極めて似かよっている説明にはなります。ただ、この考え方の場合「倭人」伝の言う『乃共立一女子為王  名曰卑弥呼』に抵触することになります。もっとも倭人が伝えた「王」の呼称を、魏の方で「王の名前」だと受け取った可能性が無い訳ではありません。いずれにしても推論の域を出ないのですが、卑弥呼(ヒビコ)あるいは卑弥弓呼(ヒビキュウコ)という名前=音の響き=から受け取られる感覚は、どうも我々日本語に親しむ者には馴染みの薄いものに思えてなりません。これに比べれば狗奴国の官・狗古智卑狗(クコチヒク)の方が、まだ倭語に近い感覚を残していると言えそうですが、如何でしょう。

これだけでは「倭人」伝が教えてくれる官名のイメージが、なかなか皆さんに伝わらないと思うので、次に幾つか例をあげておきます。ただし、読みは、あくまでも仮定のものです。「官名」は魏の使者あるいは魏書の編者・陳寿からみた言い方であるが、おそらくは当時の女王国から任命された(派遣された)者たちの役職を表したものと考えればよいでしょう。今なら、さしずめ県知事といったところでしょうか。でも、下の「官名」から大和政権への繋がりを感じますか??

    卑奴母離(ヒドボリ、ヒドモリ)   泄謨觚(エイボコ、セイボコ)   多謨(タボ)   弥馬升(ビマショ、ビバショ)   奴佳是(ドカテイ

ところで「倭人」伝は、その末尾の部分で女王・国との正式な外交関係をかなり細かく記述していますが、これは梯儁(240年)および張政(247年)の二人の使者が倭国を訪れ、その帰国報告に基づいて記されたものであるというのが通説で、二度目の使者となった張政は女王国まで辿り着いたと考えられています。また最初の使節団長だった梯儁は明らかに軍人であり(彼の官名である「校尉」は、漢代のもので防衛軍あるいは守備隊の将校を意味している)、卑弥呼からの援軍要請を受けて邪馬壹国まで赴いたとされる張政も、同様に軍事の知識を有した地方官僚であったに違いありません。(張政の官名「塞曹掾史」をそのまま意訳するなら『砦の副司令官』といった役職の人物か。ただ、掾には司法官僚という意味もある)軍人(に限らず官吏全般)にとって大切なこととは一体何でしょう?そうですね「事実の把握、正確な描写、簡潔な報告」つまり自国の政府に役立つ情報収集が彼等の本分です。若し、この二人の使者が「倭国」を訪れ、実際に旅をし、人々と出会い話しを聞いたのだとしたら「倭人」伝の描写している内容こそ、当時の倭国そのものであるに違い在りません。しかし、このページの最初にお話ししたように「倭人」伝の記述通りの所に邪馬壹国が存在するのなら、その国は地理的に見て、今の日本列島の中には存在し得ないのです。

                     卑弥呼の住む館か?     

邪馬台国はどこですか?

では、学者先生方が言うように「距離」「方角」「日数」など、情報の最も重要な部分が間違っているのでしょうか?また、写本の宿命とも言える「写し間違い」が、一番肝心な部分で度々起こってしまったのでしょうか?軍事を専門にしている複数の指揮官が、そろいも揃って偵察に出た外国の位置や方角、辿り着くまでの距離を間違って報告するでしょうか?勿論、すべての資料は編者である陳寿(ちんじゅ,233〜297)が固有の価値観でまとめたものですから、報告書が100%正確に転記されたとは限りません。それにしても実際に女王国まで旅行していたのなら太陽の動きと星(北極星)の位置で、自分たちの進んでいる方角は確認できたのではないのか。魏の使者は単身でやって来たわけではなく、お供を従えています。それらの人物も多分、軍人あるいは軍事的な知識を持った役人だったでしょう。団長が自分で観察をしなくても、部下にやらせればよかったのです。それでは、今までの推理と事実をまとめてみましょう。

    1  「倭人」伝の記述する方角・距離(日程)に該当する邪馬壹国(場所)は日本列島内に存在し得ない。

    2  魏の使節が2度「倭人」の国を訪れ、その出張報告書が提出された。

    3  魏の使節の団長を務めたのは軍事の専門家である。

    4  歴史家・陳寿が報告書を故意に改竄する(しなければならない)理由はない。

    5  「倭」は半島に在る国だと考えられる。

今まで書き進めてきた推論には前提がありました。それは「魏の使者が実際に倭人の国を訪れた」そして、その『出張報告書』に基づいて陳寿が「倭人」伝を書き残した、というものです。幾つもの国や官そして王の名前があり、国々に辿り着くまでの詳しい旅程が記され、倭人の風俗習慣そして植物・動物などの生息状況も細かく描写されている「倭人」伝。その内容に疑わしい点は存在しない=だから、魏の使者が単純な間違いを犯したのだと考え、勝手に「方角・距離」を訂正することで辻褄を合わせるやり方が永年続けられてきたのです。魏の使者は、本当に実際に見聞きしたことを報告書にまとめたのでしょうか?歴史書編集者の陳寿という人物に改竄という不名誉な嫌疑をかけられないとするのなら、何に疑惑の眼を向けるべきなのでしょう。(陳寿を信用する根拠となった、幾つかの逸話を付け加えておきます。T 彼は蜀の皇帝に仕えた後、浪人となり魏が晋に滅ぼされた後で晋に仕えた。従って魏に恩顧もない。つまり魏に都合のよい話ばかりを魏書に書く必然性は低い。  U  三国志の編纂に取り掛かったのは西暦280年と考えられており、初め私選の書であったものを、その出来栄えのすばらしさから「正史」と認められた。同じ歴史家の夏侯湛(かこうたん)は陳寿の三国志を読んで、その内容に感銘、自著である魏書を自ら焼き捨てたと言われる。  V  陳寿の三国志は、文章が簡潔で感情に左右されることなく冷静公平に書かれている、との評価が一般的である)

ここで、最期の推理の前提となる条件を、もう一度確認しておきましょう。いままでのおさらいのつもりで。

    @  陳寿は使者が提出した(であろう)報告書の記述に従って「倭人」伝を書き残した。

    A  使者は国から命じられた軍事偵察を行い、その詳細を帰国後、報告した。

    B  「倭人」は、半島の東南、大海の中にある国々である。

この三つの前提条件を満たし、その上で「倭人」伝の記述の疑問(邪馬壱国の場所が不明=記述された方角・距離の位置に該当する国が存在しない)を解消する答が見つかるでしょうか?!そんな上手い答は、たった一つしかありません。魏の使者が提出した出張報告書そのものが間違っていたとしか考えようがありません。では、何故、間違えたのでしょう。魏の使者が「倭国」には足を踏み入れなかった、つまり実際に邪馬壹国」などに行ってはいなかったからです。

卑弥呼は外国からの使者に会わなかった   壱与は13歳?

「倭人」伝との出会いは、もう30年以上も前のことでした。単位とは関係のない或る教授のゼミで、たまたま聞いた講義がもとで管理人は三国志の世界を知りました。今回のように深く突き詰め考えたことは在りませんでしたが、頭のどこか奥深い部分にはいつも「謎の邪馬台国」が眠っていたように思います。「倭人」伝についての文書、論文の類を読むたびに謎は一層深くなり、その一方で『みんな簡単に原文を、自分の説に都合よく変えるものだ』と意識していたものです。多少の書き誤り、というか写し間違いは1700年の間にあったでしょう。でも、記述の核心とも言える方角や距離を間違えるものでしょうか?

そのような思いで改めて今回「倭人」伝を読み直してみると、単純な疑問が浮上してきたのです。それは、

     邪馬壱国から援軍を頼まれたはずの魏の使者の報告に、肝心の戦闘報告が一切ないのは何故か。
  皇帝の名代として軍旗まで与えた友軍が勝ったのか、それとも負けたのか、
  その事実を報告することが使者の最大の任務ではないのか。更に、卑弥呼の国が勝ったのであれば、
  それは魏の皇帝の威力のお陰である、と記述するのが使者の立場ではないのか。

     魏の使者が、わざわざ皇帝の代理として邪馬壱国までやってきたのに
  女王・卑弥呼は何故会って礼を言わなかったのか?魏の皇帝は「親魏倭王」という金印紫綬まで下賜しているのに、
  卑弥呼は魏の使者を黙殺したのだろうか。(一度目の使者であり正規の軍人[将校]梯儁の任務は
  皇帝の金印を卑弥呼に届けることにあった)金印を届けたのが自国の出先機関の役人であったとすれば
  卑弥呼が謁見し、謝礼しなかったことも肯ける。

    「以死」の解釈については先にも触れましたが、若し、魏の使者が本当に「邪馬壹国」まで辿り着いていたのなら、当然、卑弥呼の死に遭遇したはずで、葬儀にも皇帝の代理として参列し、弔辞も述べたはずです。「倭人」の統合主体とも言える女王の死に直面した人の報告書にしては、余りにも簡潔で、倭人の悲しみも伝わってきません。さらに「倭人」伝は、卑弥呼の宗女・壹與が王になったとしているのですから、当然、魏の使者も即位の式典に列席したと考えるのが自然です。そうであれば、例え東夷 の蛮国の貧しい式次第であっても、報告書の最後に一行書き加えてしかるべきではないでしょうか。葬儀の模様、参列者の名前、人々の様子、何一つ書き残されていないのは如何にも不自然です。それなのに卑弥呼の「冢」の大きさは「徑百歩」徇葬者の奴婢が「百余人」と、いかにもありそうでキリの良い数字になっているのです。

    卑弥呼の年齢を「長大」と表現し、享年も記さなかった「倭人」伝は、壹與の歳を「13」だと言います。この記述が「倭人」伝の最大の特色を象徴しています。それは、文章の合い間合い間に具体的な数字を書き込み、記述内容の信憑性を高める書き方だと言えるでしょう。冒頭の画像をよく見てもらえば、その意味が納得してもらえるはずです。陳寿は、勿論、報告書・記録の内容 を勝手に書き換えるような人物ではありませんから、彼が意図的に数字を配置したとは思いません。これらの数字の全てが虚構だとまでは言うつもりもありませんが、その大部分は使者たちの作文なのです。魏の使者が辿り着いたのは、半島の対岸にある北九州までで、その他の国々の記述は、すべて「倭人」あるいは「倭」人から聞いた事柄に基づいた使者の想像も含めた偽りの報告書だというのが今回の結論です。

郡使は伊都に常駐した   鬼道を事とし、よく衆を惑わす

魏の二度の使者(正確には帯方郡太守の使者)が「邪馬壱国」へ行かなかったのだとしたら、それなりの理由が存在しなければなりませんが、最初の使者(帯方郡の軍人)は皇帝の金印を卑弥呼に届ける大役をおおせつかっているのですから、恐らく危険を冒しても北九州のどこかにあった「伊都国」まで到達したのでしょう。それは「倭人」伝が、わざわざ『世有王  皆統属女王国  郡使往来常所駐』と書いていることでも明らかで、郡の使者はいつでも「伊都国」に着く慣わしになっていたのです。そして代々に亘る卑弥呼に属している「王」が居るのなら、魏の使者が、その「王」を卑弥呼の代理とみなして物品を手渡したとしても何等不思議ではありません。ただ、気になる点があるとすれば「官」の名前を記している「倭人」伝が、卑弥呼の代理人であり、郡の使者が何度も会っているはずの「王」の名前が記録されていない不自然さです。例え、東夷の蛮国の、その又属国であるにせよ「王」というからには「官」より重要な人物のはずです。軍人であり、魏を代表して遠路苦難の旅を重ね、やっとの思いで自国に辿り着いた宗主国の官僚を「王」が出迎え、歓迎もしなかったのでしょうか?若しそうなら、こんな非礼な話はありません。

魏の使者が「邪馬壹国」に行っていない、また、卑弥呼や壹與に会ってもいないと考える根拠は、まず、客観的で簡潔・公平な記述を本分とする歴史家・陳寿が、

    東南陸行五百里  到伊都国  (中略)  有千余戸  世王有  皆統属女王国  郡使往来常所駐

と各種の資料・記録をもとに明言していることがあげられます。さらに「倭人」伝は「倭人」の風習に関して、

    始死停喪十余日  当時不肉食  喪主哭泣  他人就歌舞飲酒

と葬送の有様を具体的に描写しているにもかかわらず、肝心の「卑弥呼」の葬儀については「冢」の大きさと「殉死」した奴婢の数以外まったく記録していません。これは、2人の使者が一般庶民の生活は自分の眼で確認し報告書にも情報として記載していたが、女王の葬儀などについては「倭人」からの伝聞・推量に頼っていたと考えるべきだと思うのです。

また、陳寿が残した「倭人」伝には魏の使者が「卑弥呼」「壹與」に直接会った、という記述がどこにも見当たりません。これは普通に考えれば外交として(魏の皇帝の代理人が相手国の国王に直接会わないことは)不自然にも思えるのですが、その点について「公平」な陳寿が全く疑義を差し挟んでいないのは、当時の中国と蛮国との付き合い方として、相手国の王に直接会わなくても別段問題ではなかった事がうかがえます。さらに「倭人」伝は、卑弥呼の日常について述べた箇所で、

    事鬼道能惑衆  年已長大  無夫婿  有男弟佐治国  自為王以来少有見者

と彼女の国政を補佐する「男弟」の存在を示唆していますが、女王の弟という極めて重要な立場にある者の名前も官名も記さず、その人物像についても全く沈黙している。これは「男弟」に限らず「倭人」伝が記録している「倭国」の重要人物すべての描写にあてはまることで、卑弥呼については年齢さえ定かではなく「鬼道」を事とすると言いながら、彼女が「衆」を「惑」わせたはずの発言の片鱗も紹介していません。何度も述べてきましたが、これらの事実を総合して「倭人」伝の文章を無心になって読むとき、人物としての「卑弥呼」や「壹與」の姿が一向に見えてこない、何か、霞みの彼方に消え入りそうな印象しか得られないのです。それは、魏の使者が出張報告書を提出する際、数度にわたり「倭人」たちから聞き取った、曖昧で不確実な情報を糊塗するために、距離・方角・人数・日数などといった一見具体性のある数字を故意に差し挟んで装飾した結果ではないのかと思えてならないのです。

  張政は本当に「倭国」まで来ていたのか?

特に二度目の使者が「倭国」に赴いたとされる247年という年を考えると、張政が本当に「倭国」まで辿り着けたのか疑問を覚えます。何故なら、その前年の正始7年は半島国家である馬韓と魏が戦争を行い、魏の太守が戦死。一時期、半島内が無政府状態になる大混乱の状況が生まれていたのです。翌年前半と思われる半島を経由した「倭国」への旅は、相当の危険を伴う正に命がけの任務であったことになりますが、張政という人は何事にも動じない余程の大人物であったのか、戦によって荒れ果てたであろう国々・人々の現実を伝える文言は何処にも見られず、距離・方角そして日数などが淡々と述べられています。まるで自分の直属上司の戦死など無かったかのように…。

もち論、以上のお話しは全て管理人の独断が生んだ仮定の論理です。「邪馬壹国」という国が無かった、と言っている訳ではありませんし「卑弥呼」と呼ばれた「女王」が存在しなかった、と断定している訳でもありません。ただ、謙虚に無心になって「倭人」伝を読めば、直接見聞した事実に基づく血肉の通った情報だけが持つ、心の琴線に触れるモノが感じられない、と言うことなのです。興味を持たれた方は、是非、ご自分の眼で「倭人」伝の全文を確かめてみてください。

     
     

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