斎宮・倭姫命は垂仁天皇の皇女だったのか                         「サイトの歩き方」も参照してください。

大王の位を引き継ぎ御間城姫を皇后に立てた崇神天皇は、その治世三年の秋に都を磯城瑞籬宮へと遷します。ところが「国内に疾疫」が蔓延し、国民の多くが生死の境を彷徨う有様で、中には住み慣れた土地を捨て逃散する者まで現われる惨状となり、天皇は朝となく夕となく神祇への祈りを捧げたのですが捗々しい結果を得られませんでした。当時、天照大神と倭大国魂神の二柱を一緒に天皇の大殿(住居)の中でお祀りしていたのですが、神々の「勢いを畏れた」崇神帝は一つの決断を下します。それが二柱を宮殿外に遷すことだったのです(つまり、建屋を備えた神社が初めて拵えられた)。書紀はその模様を、

  共に住みたまうに安からず。故、天照大神をもては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭り、よりて磯堅城の神籬を立つ。
  また、日本大国魂神をもては、渟名城入姫命に託けて祭らしむ。しかるに渟名城入姫命、髪落ち躰痩みて祭ることあたわず。

と記録していますが、ここで幾つかの疑問が浮上してきます。まず一つ目の「?」は笠縫邑に比定されている檜原神社の建つ「場所」に関わるものです。下の周辺図を見てもらえば分かりやすいですが、崇神天皇の都が置かれた磯城の瑞籬宮は、現在の桜井市金屋に立つ志貴御縣坐神社の辺りであったろうと考えられています。つまり聖なる三輪山を背にした大神神社の更に南側の場所なのです。当時の朝廷に、大陸の地が発祥とされる「郊祀」の概念がどのような形で理解されていたにせよ「夏至の日、天子自ら都の北郊に至って地神を祀り」「冬至の日、天子自ら都の南郊に至って天神を祀る」と云う最も基本的な事柄については当然考慮されていたと推測されるのですが、書紀の云う笠縫邑が元伊勢を称する檜原神社であるとするなら、その立地は都の「真北」にあたりますから「天神(皇祖)」を祀る場所として相応しくないと言わざるを得ません。帝室は既に神武天皇が大和入りを果たした直後に「霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、用て皇祖天神を祭」(神武四年春二月条)ったとされていますが、この折には地祇の祭祀に全く触れられていません。また「鳥見山」を桜井市の外山近くだと仮定すると瑞籬宮からは南方に当たりますが、神武帝は「畝傍山の東南の橿原」に宮を建てたはずなので「郊祀」という考え方そのものが未だ取り入れられていなかったことをも示唆しているようです。(飽く迄も推測に過ぎませんが、外山にはニギハヤヒを祀る等彌神社があり、神倭磐余彦尊でもある神武天皇は先住の登美能長脛彦・ニギハヤヒ一族を「征服」した天孫族なのですから、その聖地を敢えて自らの「祀りの庭」としたと書紀は云いたかったのかも知れません、閑話休題)

周辺図  大神神社  檜原神社

  等彌神社   倭姫命世記

二つ目の問題点は「倭姫命」という女性そのものに関わるものです。崇神帝が自ら発案して皇祖神アマテラスを皇居外で祀る方針を打ち出し、皇女・豊鍬入姫命は「元伊勢」と後に称される社の祭主となった訳ですが、次代の垂仁天皇は十五年の春二月に「丹波道主王の娘」四人を後宮に入れ、同年八月その内の一人日葉酢姫命を皇后とします。その姫との間に生れた三男二女の第四子が倭姫命と名乗る女性でした。書紀は「垂仁二十五年三月条」で次のように伝えます。

  三月、天照大神を豊耜入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまう。ここに倭姫命、大神を鎮め坐させん處を求めて、菟田の篠幡に詣る。
  更に還りて近江国に入りて、東、美濃を巡りて、伊勢国に到る。時に天照大神、倭姫命に誨えて曰わく『この神風の伊勢国は、常世の波の重浪帰する国なり。
  傍国の可怜し国なり。この国に居らんと思う』とのたまう。

大神が甚く伊勢の地を気に入られた様子が伝わってきますが、ここまで読み進めて何か違和感を覚えた読者の方はいるでしょうか?何々、難しい事柄ではありません、簡単な引き算で答えは見つかるはずです。皇后日葉酢姫命が垂仁帝の許に輿入れしたのが「垂仁十五年」そして倭姫命は「第四子」であり、彼女が大神の安住の地を求めて旅立ったのが「垂仁二十五年」だったとするなら、その時、姫は未だ学齢にも達しない子供だったに違いありません。「四〜五歳」の少女だから斎宮の勤めが出来ないと決めつけるのは早計に過ぎるかも知れませんが、先代の豊鍬入姫命を差し置いて皇祖アマテラスの「御杖(みつえ)」となるには荷が重すぎはしないでしょうか?また日本書紀はこの他にも日葉酢姫命が@五十瓊敷入彦命A大足彦尊(景行天皇)B大中姫命C稚城瓊入彦命の四人も産んだと記録していますが、系譜研究の結果「五十瓊敷入彦命は景行天皇と同一人物」である可能性が高く「稚城瓊入彦命」は業績や後裔子孫が全く資料に見えない事から架空の人物だと推測され「大中姫命」は実在する可能性があるものの、古事記には「大中津日子命=山辺之別、稲木之別、吉備之石无別らの祖」と記述されて皇子(男)の一人に上げられています。記紀と新撰姓氏録の記事を比較検討してみると、ここに出てきた「吉備之石无別」は和気氏の祖先を意味するものであると分かりますから、大中津日子命とは皇后の妹・渟葉田瓊入姫命が生んだとされる鐸石別命(ヌデシワケ)と同じ人物ではないかと推定できます。そうすると倭姫命を除く四人の内で存在が確実な子供は大足彦尊一人のみと云うことになりますが、彼本来の諱である五十瓊敷入り彦命の「五十瓊」は、崇神天皇の「御間城入彦五十瓊殖」の一部をそのまま名前に取り入れていますので、恐らく垂仁天皇の子供ではなく垂仁帝の兄弟の一人、つまり弟ではないかと筆者は推理しています。

これらの事情を総合して判断するなら、皇后だったとされる日葉酢姫命と垂仁天皇との間に生れた子女は倭姫命一人きりである事になり、帝室は幼い皇女に重大な任務を託したことになりますが…。十三世紀後半、伊勢外宮の神官、度会行忠(1236〜1306)が記したとされる「神道五部書」には、その倭姫命が大和から伊勢に到るまでの長く困難な道のりの詳細を記した文書(『倭姫命世記』)があるのですが、書紀には記録の無い以下の記述が含まれています(上右の画像参照)。

  崇神五十八年 倭の彌和乃御嶺上宮(美和之御諸宮)に遷り二年間奉斎、この時豊耜入姫命は『吾、日、足りぬ』と言い、
  姪の倭比売命に事を預け、御杖代と定めた。

度会氏の手許にどのような古事を記した資料があったのか知ることは出来ませんが、この一節は「倭姫命が崇神朝から活動していた」事を意味しているのは明白です。しかし日葉酢姫命と垂仁天皇の「娘」が、この時期生存していること自体有り得ませんから、伊勢外宮内部には「豊耜入姫命と倭姫命が同一人(倭姫命は分身)」とする伝承が残されていた可能性があります。上で見てきた「皇后」所生の子女たちの情報からも、倭姫命の斎宮就任話は後世の系譜改編作業の一環として新たに付け加えられた「伝説」だったと考えられます。オノコロ・シリーズでは息長氏の出である稲背入彦命が垂仁帝の娘・阿邪美都比売命と結ばれ帝室の一員となり、二人の間に生れた子供がホムツワケ(応神)であるという仮説を立てています。皇祖アマテラスの祭祀を掌る斎宮の原点が垂仁朝に在るという主張も、応神帝から継体帝へと受け継がれた「新しい王朝」の主たちの意向を反映したものに違いありません。古代に於いて祭祀は天孫族の物部氏がほぼ独占していました。同氏の当主には三代続けて同族の三上氏から娘が嫁いで、その間に生れた男子が跡取りとなり、崇神天皇の母親・伊香色謎命も物部氏に代表される天津彦根命(の子・天御影命)の後裔たちが育んだ血脈の結晶だったのです。「日葉酢姫命と倭姫命」親子は祭祀そのものの革新を象徴していると見做すことが出来そうです。そのような視点から垂仁紀三十九年条にある註文『この時に(石上神宮の)神、乞して言わく「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とのたまう。因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首が始祖なり』を読むと、神々を祀る分野での新旧交代が行われつつあったことが明確に伝わってきます。(註:この「物部首」は物部氏ではなく春日和邇氏の一族で、市河の二人の姪が応神妃となっています)

以下はおまけ話です。「笠縫」は、そこに住んだ人たちの職掌が集落の名前になったものだと考えられていますが、日本書紀は天孫降臨の処で「大物主神の国譲り」に関連して「紀伊国の忌部の遠祖、手置帆負を以ちて作笠者(カサヌイ)と為し」(第二の一書)と表現しています。その「笠」は普通の被り物であると同時に、古代の戦士が身に着けていた「兜」をも意味していると思われますから、銅や鉄の被り物を拵えていた人々が住む處であれば、そこが「かさぬい」と呼ばれたのでしょう。檜原神社の更に北側には穴師坐兵主神社が建てられていますが、その名称に含まれる「穴師」は製鉄を職業とする者を表す言葉だと思われますから、やはり三輪山の北側一帯では金属に深く関わった集団が活動していたと容易に推測出来そうです。

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