源義経、西行法師そして東行高杉晋作                                   サイトの歩き方」も参照してください

  ザンギリ頭の凛々しい高杉晋作  松陰先生  征夷大将軍、源頼朝

日本国初の内閣総理大臣にして、師筋にあたる吉田松陰(よしだ・しょういん,1830〜1859)から『周旋』の才があると認められた、あの正二位大勲位公爵・伊藤博文(いとう・ひろふみ,1841〜1909)は明治四十二年九月、故里が生んだ稀代の天才の顕彰碑に刻む記念の文章を頼まれ、すでに半世紀前の思い出・歴史の一コマとなりつつあった幕末時の活躍、そして精神の高ぶりを思い起こし勇躍したためたという。その書き出しには、

    動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし。

    これ我が東行高杉君に非ずや。

と奇兵隊の創設者・高杉晋作(たかすぎ・しんさく,1839〜1867)の偉容を讃えた文言があり、以下、高杉の一生涯・業績が延々と語られるのですが、この「東行」という妙な名前は高杉が自らに付した号で、その由来は、勿論、和歌で有名な西行(さいぎょう,1118〜1190)法師にちなんだものだとされています。

西へ行く 人を慕いて 東行く 晋作         たつさわの 秋の夕暮れ

    奇兵隊日記と高杉の書簡(京都大学蔵)  新古今和歌集

天保十年(1839)八月、長門の萩に生まれた晋作は藩校・明倫館で学び、のち昌平校でも学んだ優秀な人ですが、やはり最も影響を受けた人物は吉田松陰ではないかと思われます。安政の大獄で知られる大老・井伊直弼(いい・なおすけ,1815〜1860)が強引に進めた諸外国との通商条約(いわゆる不平等条約)の締結を機に、国内では攘夷の考え方(外国との通商、いわゆる開国を否定する立場で、あえて国土に近づく者は武力で撃退するという考え方)が急速に勢いを増したのですが、師と仰ぐ松蔭が「大獄」の犠牲となったのが安政六年(1859)、晋作二十歳の年でした。福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)たちの政府遣欧使節が派遣された文久二年(1862)晋作も独り清国に渡り、上海で列強の武力の凄まじさ、自国を取り巻く世界情勢の現実をまざまざと見せ付けられたのです。そして翌文久三年、高杉は、従来の「兵=武士集団」という考え方を棄て、まったく新しい戦闘組織・奇兵隊を創設します。同じ年、三月十六日、晋作は、

    西へ行く人を慕いて東行く  心の底で神や知るらむ

という一首をものしていますが、この「東行」は、彼も言っているように「西へ行く人」つまり西行を念頭においた号であることは明白ですが、当然、彼が打倒すべき江戸幕府(東)に、今から不屈の戦いを挑むのだ、という並々ならぬ決意をも現わした言葉に違いありません。では、幕末の風雲児・高杉がお手本とした西行法師とは一体どのような人だったのでしょう。国語・古文の授業で『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)に収められている和歌を学ばれた方も多いことと思いますが、多分、そんな折「三夕の歌」の一つとして、次の一首が教科書に掲載されていたのではないでしょうか。

    心無き 身にもあはれは 知られけり  鴫たつさわの 秋の夕暮れ

この一首と良く比較されるのが藤原定家(ふじわら・さだいえ,1162〜1241)の、

    見渡せば花も紅葉もなかりけり  浦のとまやの秋の夕暮れ

という作品ですが、皆さんは、どちらの歌に「詩心」を感じられるでしょう。それはさておき、この項とは全く関係のない事ですが、実は、この西行と平清盛(たいら・きよもり)は同い年、1118年の生まれなのです。そこで、恒例の年表も源平の活躍や浮沈といった出来事に的を絞って、西行の生きた時代を案内してみることにしましょう。

西 暦 源平にかんする出来事 西行と義経に関する出来事 その他の出来事
 1118   清盛が生まれる  西行誕生(佐藤義清)  平安な時代は過去のものとなり、殺伐とした空気が都に充満した。
 1092年 京都で大火事
 1099年 近畿地方で大地震
 1111年 荘園記録所が開設
 1119年 京都に強盗が横行する
              崇徳天皇が生まれる

 1180年から1186年にかけて西行は伊勢に住んだ。


 1186年、西行は東大寺の要請を受けて再び、奥州へ 勧進の旅に出かけ翌年帰路に着いた。
 この時に歌ったとされる一首が、西行の代表作として、 よく教科書などにも採用されている。
 1126  1132年、平忠盛が昇殿を許され
 以後、平氏は「海賊」退治等により
 活躍が認められ繁栄してゆく
 藤原清衡が中尊寺を完成させる
 1135  西行、兵衛尉に任じられる
 1140  10月、西行が22歳で出家する。
 世の無常を感じて?
 1146  清盛、安芸守となる
 1147  頼朝が生まれる  西行、陸奥への旅に出る
 1159  平治の乱  義経が生まれる
 1167  清盛、太政大臣従一位となる  この頃、義経が鞍馬山へ。
 1174年、義経は平泉を頼る
 1180  8月、源頼朝が挙兵
 1181  清盛死去、  藤原秀衡が陸奥守に任官する
 1184  源義仲が征夷大将軍となる  義経、一の谷で平氏を破る
 1186  義経、奥州藤原氏の許に逃れる。秀衡が死去、素衡が当主に
 1189  8月、頼朝が平泉に入る  義経、自害。奥州藤原氏が滅亡
 1192  頼朝、征夷大将軍となる  「義経」生存の噂が鎌倉で広まる

西行は「旅」そして「無常」感と共に語られることが多く、何物にも囚われない俗世間とは縁を切った漂泊の自由歌人といった印象が強い人物ですが、彼がもともとからどの寺にも属さない一介の法師として人生を歩み始めた訳ではありませんし、生活苦あるいは向学心から僧侶の道を選んだ訳でもないのです。小説家・司馬遼太郎は『義経』という作品の中で、奥州藤原氏の出自について、

    その祖である経清は関東から流れてきた人物であり、摂関家につながる藤原氏とは関係がない

と、あっさり両藤原家の姻戚関係を否定していますが、現在でも一般的には藤原経清(?〜1062)という人物は、藤原不比等(ふじわら・ふひと,659〜720)の子供であり北家の始祖・房前の子孫である藤原秀郷(ふじわら・ひでさと、俵藤太)の流れを汲む名門の出である、とされており、この項の主人公の一人である西行(俗名佐藤義清、さとう・よしきよ))の生家・佐藤家も同じ一門だとされています。したがって、歌を生涯の友として俗世間からも遠く距離を置き、一生を無名のまま過ごした世捨て人、という人物像は全くの的外れで、彼が出家した時の様子を、時の左大臣・藤原頼長(ふじわら・よりなが,1120〜1156)が、その日記『台記』の中で、

    俗時より心を仏道に入れ、 家富み年若く、心愁なきも、遂に以って遁世す。人之を歎美せるなり。

と賞賛気味に語っていることでも、西行(当時は佐藤義清)が二十二歳の若さにもかかわらず、既に中央政界の貴族にも名を知られる程の存在であったことが分かります。また、左大臣家の当主自らが『家富み』と言っている程の財力が佐藤家にはあった、ということも明らかです。その西行が七十歳を目前にした文治二年(1186)八月、東大寺再建の資金集めのために再び奥州・藤原氏を訪ねる旅に出たのです。初めての奥州行きから実に四十年ぶりの再訪でした。

いのちなりけり、小夜の中山

安徳天皇(あんとくてんのう)が即位し平清盛が天皇の外祖父の地位を得た治承四年(1184)、全国規模の動乱が各地で相次ぎ世情は正に騒然となりますが、それでも新年を迎えれば、何かよい事でもありはしないかと、庶民たちが年越しの準備を進めていた同年十二月二十八日夜、平重衡(たいら・しげひら,1157〜1185)の軍勢が東大寺・園城寺さらには興福寺などの大寺院を夜討ち、多くの堂塔伽藍が瞬く間に焼失したのです。また、この無益な戦場から逃れようとして命からがら東大寺の大仏殿に逃げ込んだ千七百人余りの人人も大仏と一緒に炎の中で無残な最期を遂げました。

有力氏族の代表・藤原氏の氏寺である興福寺は豊富な財力を背景に素早く再建にこぎつけましたが、東大寺の復興には全国から寄進が集められたにもかかわらず、中々捗らなかったのです。造営の責任者に任命された俊乗坊重源(ちょうげん,1121〜1206。紀氏出身)は、奥州・藤原氏とも縁のある西行に、大仏さまを鍍金するために必要な砂金の提供を約束してくれていた藤原秀衡・素衡親子の元へ督促に行ってもらえないか、と頼み込みました。仏門の頂点にあった重源と、古希を目前にした歌人・西行との間に、一体どのようなやりとりが交わされたのかは一切分かりませんが、恐らく重源も当時の源平を軸にした混乱を極める国内情勢の中で、しかも鎌倉から見て敵対勢力と見なされている奥州へ赴く使者として、西行以外の人物を思いつかなかった、というのが実情ではなかったかと思われます。

  錦絵では弁慶と一緒  歌舞伎勧進帳のモデル  吾妻鑑

当時、二見が浦で戦乱を避け住んでいた西行は鳥羽から船に乗り込み答志島、菅島を経巡り伊良湖岬を目指し旅を始めたと伝えられ、

    菅島や答志の小石分け替へて  黒白混ぜよ浦の浜風

の一首は、船旅の時に詠んだものだとされていますが、文治二年(1186)夏、八月十五日、何を思ったのか西行は砂金勧進の旅にもかかわらず鎌倉に立ち寄り、頼朝に面会を求めました。幕府・公文書『吾妻鏡』は、その模様を次のように伝えています。

    八月十五日、二品(頼朝のこと)鶴岡宮にご参詣。而るに老僧一人鳥居の辺りに徘徊す
  これを怪しみ、(梶原)景季を以て名字を問わしめ給うの処、佐藤兵衛の尉憲清法師なり。今、西行と号すと

この文章からは「西行の方が頼朝に面会を求めた」様子を窺がうことで出来ますが、当時すでに頼朝・義経兄弟の破局は決定的なものになっており、鎌倉方の陣営では義経が鞍馬山を出たあと奥州へ向かったように、兄と離反した現在、再び藤原氏を頼って義経一行が東北方面へ落ち延びようとしているのではないか、との疑念を十分抱いていたはずで、正に、其の地へ向かうこととなった西行にしてみれば、何も下心があっての旅ではない、と釈明しておく必要があったのかも知れません(各街道には当然見張りの者が配置され、少しでも怪しいと思われた者は拘束されたはずです。また、そのための関所もありました)

西行が来訪したとの知らせに頼朝は『和歌の事を談るべき』と彼を営中に招きますが、

    詠歌は、花月に対し動感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。全く奥旨を知らず

と、取り付く島もない有様、頼朝の困惑した表情が目に浮ぶようですが、初め「弓馬の事」についても西行は、

    在俗の当初、なまじいに家風を伝うといえども(中略)、皆忘却しをはんぬ

頼朝が贈った、子供に与え旅立つ西行

「尊卑文脈」より。  PR

「昔とった杵柄、みんな、もう忘れました」と頼朝の気を殺ぐ生返答ばかり繰返していたのですが、流石にそればかりではまずいと思ったのか、しばらくしてから『弓馬の事』について『つぶさに』話しを始め、頼朝は西行の言葉を聞くと同時に家臣の一人(俊兼)に命じ「詞を記」させています。西行にしてみれば一刻も早く鎌倉から離れたかったのかも知れませんが、結局、頼朝との面談は「終夜」におよび、翌日も「しきりに抑留」されたのですが、お昼頃、ようやく旅立ちました。その時の逸話がお芝居や画題などとして取り上げられる「銀の猫」の一件ですが、その模様を『吾妻鏡』は、

    二品、銀作の猫を以って贈り物に宛てらる。
  上人これを拝領しながら、門外において放遊の嬰児に与う

と極めて事務的に淡々と記述しています。芝居の一場面、別離の風景としては実に良く出来たお話しで、多くの家臣に見送られながら頼朝の居宅を辞した西行が、背中に頼朝の視線を感じながらも、今、贈り物として貰ったばかりの高価な品物を、門の外でたまたま出会った見知らぬ子供に、飴玉でも施すようにひょいと手渡し、後は、何事もなかったかのように街道を歩き続けてゆくその後姿は、天下人の座を目前にした頼朝の眼に、一体どのように映っていたことでしょう。西行の「奇行」に関しては何も論評せず、法師の目的が『重源上人の約諾を請け、東大寺料の砂金を勧進せんがため奥州に赴く』ことにあると述べた『吾妻鏡』は、八月十六日、西行出立の項を次の言葉で締め括っています。

    陸奥の守秀衡入道は、上人の一族なり

簡潔で、まったく装飾の施されていない、事実だけを述べたこの一文からは『お前のすることは全てお見通しだぞ』とでも言いたげな、鋭い疑いに満ちた冷たい視線がうかがえますが、西行は無事大役をこなしたらしく、数ヶ月の後には藤原氏が贈った砂金が都に無事届けられました。さて、今回もまた長々しい前説になりましたが、肝心なのはここからのお話しで、奥州へ勧進の旅に出かけた西行と、頼朝の追っ手を逃れた義経が、果して藤原氏の本拠地で出会えたのか?という推理なのですが、時間的には、どんぴしゃり間に合います。何度もお話ししてきたように東大寺勧進の勤めを果たすべく西行が鎌倉を出立したのが文治二年(1886)八月十六日ですから、おそらく9月中には奥州・藤原氏の許に着いているはずです。  

そして義経は一旦「西国」を目指そうとしたのですが嵐で船が使い物にならなくなり断念、関西方面の各地を転々とした後、文治三年三月までの間に奥州入りを果たしています。(鎌倉側の資料ではそのように記されていますが『尊卑分脈』は、義経が秀衡の館へ下着したのは、正に頼朝と西行が面談していた文治二年夏だと記述しています)では、お相手となるべき西行が、到着から半年以上も経った翌年の春まで奥州の地に留まっていたのか?ということになりますが、冬を迎えつつあった時期、老人に長旅は相当の苦難をもたらします。春まで滞在するよう勧めたと考えた方が自然だと思うのですが如何でしょう。更に、WEB上で見つけた『西行が文治三年三月、羽黒山、袖の浦に遊んだ』(「歴史データベース」)という一言だけが会合があったという想像の補強材料なのですが、この文書も原典(どのような書物から引用したのか)が明らかにされていないので証明することまでは出来ません。しかし、西行が鞍馬山から出奔した義経を奥州・藤原氏の許へ届けさせた人物の一人だと考えている者としては、二人の歓談する風景を、つい思い浮かべてしまうのです。

「新古今和歌集」は九十首を超える西行の作品を収録、時の後鳥羽上皇は、その『御口伝』の中で西行を評し、

    おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず

と彼の個性を最大限に賞賛していますが、無常の世を一気に駆け抜け、わずか三十歳で憤死した義経の魂は、西行の心に何を語りかけていたのでしょう。

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