夢野と菟餓野(とがの)と楠正成                           サイトの歩き方」も参照してください。

やっとの思いで西国九州の地に追い落としたばかりの足利方が、見る見るうちに勢いを旧にも増して盛んにし、各国の地侍たちからの助勢を加えて五万とも六万とも称される大軍を率いて、都を目指し快進撃を続ける高氏(1305〜1358)たちの「情報」を逐一手に入れていた楠正成(くすのき・まさしげ,?〜1336)は軍議の席で敢えて自論を愚直に繰り返しました。

  『今の足利方には勢いがあります。時の勢いというものです』
  『京の都は外からの攻撃には強くありませんが、敵の主力を都の内に入らせれば、攻撃の仕様は幾らでもあります』
  『今となっては、高氏と和睦なされるのが上策ですが、それも叶わなければ再度、吉野へお移り頂くのが次策と考えます』

高氏軍の背中を押す「時の勢い」「時の流れ」を強く意識していた正成の献策は全て却下された。その主な理由は『お上に、年に二回もご動座願うなどもっての他』という主旨で、公家(坊門清忠)の発言は、

  『未だ戦を成さざる前に帝都を捨て、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且つは帝位を軽んずに似たり』
  『ただ、時を替えず、楠、罷り下るべし』

という内容であったらしく、普段、温厚沈着で知られた正成が、この時ばかりは『此の上は、さのみ異議を申すに及ばず』と気色ばむ一場面もあったようなのですが、帝からも新田義貞(1301〜1338)の軍に加わるよう命が下ったのを受け、建武三年(1336)五月十六日わずか七百騎の手勢だけを引き連れて京都を後にしました。桜井の駅で長男・正行(まさつら)を国許河内に返したのも、此の折のことです。何日かの後、摂津兵庫の氷室神社(下右の画像)に武装した一団が訪れ、宮司・小林に面会を求めました。本陣の西北、言葉を変えれば最も足利軍の主力に近い会下山(えげやま)に陣を置く事を決めた正成が、古くから伝わる社家の地図と砦築造のための人員の提供を求めたもので、全てを承諾した神社側に「幟と弓矢」が納められたと社伝に記されています。源平の故事を彼が知らなかったとは想像できませんが、夢野の言い伝えは初めて耳にしたのではなかったでしょうか!(下左の図で左下が会下山。神戸市立図書館蔵の古地図による)

古地図にある会下山   楠正成像   氷室神社(神戸)

ここで時計の針を百五十年ばかり巻き戻します。次の主役は九郎判官・源義経(みなもと・よしつね,1159〜1189)です。国全体を覆う状況は似てなくもありません。都での権力闘争に敗れた平氏は、前の年の七月に「都落ち」しましたが、源氏勢が内紛で混乱している間に何とか勢いを取り戻し、本拠地を再び神戸福原において強固な防衛陣地を築き終え、決戦の日に備えていたのです。平家追討の搦め手軍を預けられた義経が京都を出発したのは寿永三年(治承八年、元暦元年、1184)二月四日だとされていますが、一の谷の合戦が「七日」に行われているのですから、幾ら義経の軍が機動力に優れていたとは言え、余りにも時間的な余裕が無さすぎます。これは九条兼実の日記(『玉葉』)にある一月二十六日から同月末までの間だったと考えた方が良さそうです。(2月4日は平清盛の[命日]に当たります。物語り作家が運命的?な巡り合わせを演出した可能性もあるでしょう)七日、午前6時ころに「矢合わせ」が行われ、源平の戦いが始まりますが、平家側の抵抗は激しく強力で源氏が「苦戦」を強いられる中、百騎にも満たない義経「軍」が「一の谷の後山(鵯越)」から平家の「背後」を急襲、思わぬ「方向」からの攻撃に浮き足立つ平家の軍勢に「火攻め」が追い討ちを掛け、平家軍は総崩れの状況を余儀なくされたと「平家物語」などが伝えています。(氷室神社によれば、合戦時に平教経(たいら・つねのり,1160〜1185?)という武将が夢野に陣を設けていたとされ、その背後に鵯越道もあり、話の辻褄が合います)

この、義経「鵯越の逆落とし」については場所を含め諸説あるようですが、京で育った彼が丹波兵庫の地理に明るかったと考える事自体に無理があるでしょう。知らない土地で多くの部下を従え「命のやり取り」を行うのです。如何に「二十五歳」の血気盛んな男とは言え、全く白紙の状態で神戸を目指したとも思えません。また、丹波街道沿いの各地や兵庫一帯には「源氏」一門の豪族・豪農などが多数居たはずですから、それらの中から平家軍に関する状況をも含めた地元の「情報」を得ていたと考えた方が自然です。そのような目で見れば、平家物語「老馬」の段に登場する「年五十ばかりなる男」の存在が注目を集めます。或る資料では「二人」の若者を帯同していたとされる、この「男」、義経側の質問に対し、

  本は、此の山の裾に相川という里の者にて候しか。
  ここ、十余年、此の山に籠もり、狩を任る「斧柄の妾」と申す者にて候。

と返答をしたそうです。彼が紹介した「先導者」が鷲尾某たちということなのですが、ここで一端「夢野(ゆめの)」の縁起に話しを戻します。「摂津風土記」逸文によれば、昔むかし『雄伴の郡(武庫郡西部、八部郡のこと)に夢野』という土地があり、そこは往古「刀我野(とがの)」と呼ばれており、一組の鹿の夫婦が住んでいたそうです。或る朝、不思議な夢を見た牡鹿が妻に語りかけます。

  今、夢を見ていた。私の背中に雪が降り積もっていた。
  もう一つ見た。それは「すすき」という草が、私の背に生い茂っている夢だった。これは、何の「兆し」なのだろう?

夫が「淡路の国」の野嶋に住む「妾」の許に通っていることに腹を立てていた牝鹿は「夢占い」で答えます。

  背に草が生えるという夢は、漁師の「矢」が刺さるという「兆し」です。
  また、雪が降るというのは、貴方が「塩漬けの肉」にされるという「兆し」です。

だから、また野嶋に渡ろうとしたら「必ず」舟人に遭って射られるでしょうと諭したのですが、彼は聞く耳を持たず予言は的中しました。これと殆ど同じ内容の話しが仁徳紀三十八年七月条にも出ていますが、実は、それ以前、神功皇后摂政前紀にも「菟餓野(とがの)」は登場しています。そして、夢野との繋がりは、こちらの方が強いように思えます。時間は、更に遡り、応神帝の即位前の場面です。外征を成功裏に終えた皇后は、海路、ヤマトを目指しますが、応神の異母兄に当たる香坂王、忍熊王の二人は『我等、何ぞ兄をもって弟に従わん』と反発、

  即ち、偽りて天皇のために陵を作る真似にして、播磨に到りて山陵を赤石にたつ。
  船を編みて淡路の嶋に渡して、その嶋の石を運びて造る。人ごとに兵を取らしめて、皇后を待っている時、

二人の王子は菟餓野に出て「祈狩(うけひがり)」を行います。つまり『若し事を成すことあらば、必ず良き獣を獲む』と考え「狩り」の獲物によって吉凶を占おうとしたのですが、仮設の桟敷で成り行きを見守っていた二人の許に「赤い猪」が駆け登り、香坂王を「喰い殺して」しまったのです。兵士たちも怯えだし、忍熊王も「大きなる怪」であると判断、軍を「住吉」に後退させました。通説では「夢野」と香坂王が遭難した菟餓野は別物だとされていますが、夢野の地には興味深い言い伝えが残されています。それが「御塚」と呼ばれる古墳(跡)の存在(下左の図参照)。氷室神社の資料には『香坂皇子の墓』ではないかとも記されていますが、元々この地は熊野町にある熊野神社の社地であり、そこには「古殿(こどの)神社」が建てられていました。祭神は勿論、あの闘鶏で狩りをしたとされる額田大中彦皇子その人に他なりません。(古殿神社は大正六年に熊野神社内に移されています。だから「御塚」は現在、小公園として整備されています。仁徳帝は皇子の異母兄弟です)

古地図 熊野神社  古殿神社 PR

夢野の御塚が仲哀帝の息子・香坂王の墳墓であるかどうかは別にして、兵庫区北山町の一帯が古墳時代から人々の住む地域であったことは確かな様で、大正十二年五月、夢野丸山古墳(円墳?、三世紀前半頃?)から鉄刀片や斧などと共に一面の珍しい鏡が発見されています。呉の黄武六年鏡(西暦227年)の図柄と一致する、四神図を配した鏡の持ち主こそ、兵庫の支配者であったのでしょう。「とがの」と呼ばれる野原は各地に在ったのかも知れません。そこで古代の人々は唯、獲物を追い求めるだけではなく、獲物の中味によって自分達の未来についても「占う」風習があったと思われます。「とがの」が「夢野」に変わり、一方では「都祁野=闘鶏野=つげの(告げ野)」にも変化したのではないかと想像されるのです。ただ、神戸の氷室神社に関しては、何故、祭神(オオクニヌシ、仁徳帝など)に氷室の発見者・額田大中彦皇子が加えられていないのか疑問を覚えます。(尤も、祭神は時代により、情勢により替えられる事もありますから、断定的な物言いは出来ませんが…)

会下山は「山」とは付いているものの標高は百メートルもありません。しかし、当時は海岸線も近かったと思われ、海上を埋め尽くす足利高氏の水軍も手に取るように見えていたことでしょう。旧暦五月二十五日、楠木軍は夜明けと共に足利勢に襲い掛かります。湊川の戦いの始まりです。正成が地域の支持を得ていたのは「戦に負けない工夫」を幾つも編み出し、戦争による味方の犠牲を出来る限り少なくしようと試みたからではないかと思います。数十倍とも言われた足利の陸軍主力(直義、斯波高経、少弐頼尚など)が数を頼んで一気に殲滅せず、楠木一族に終日「戦い」の機会を与えたのも、有終の美を飾る者たちへの餞別だったのかも知れません。


国を二分した「戦い」が、いずれも摂津兵庫で行われたのは偶然なのか?或いは「それなりの」理由があったのか?皆さんは、どのように思われますか!神功皇后の船団を何とか阻止しようと、二人の王子が「播磨」に赴き「赤石(明石)」に山陵を築いたという伝承の存在が、西から来る勢力を抑える場所としての「明石海峡」周辺の重要性を示唆したものだと考えるなら、中世においても、その有効性は当然、敵味方双方に十分意識されていたと見るべきでしょう。そう考えれば「大化の改新」を断行したヤマト政権が、摂津兵庫に「武器」を集め「兵器庫」としたことも肯けます。確かに、本四連絡橋も明石に造られましたね!

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