徳川吉宗浮世絵の「恩人」だったのか?                          サイトの歩き方」も参照してください。

徳川家第八代将軍の吉宗(1684〜1751)は、水野忠之を老中に登用し「享保の改革」を行い、幕府の屋台骨を再構築し直した名将軍だという事になっていますが、様々な事情が不思議に重なり合い、二十二歳で紀州藩の当主になった後、享保元年(1716)徳川宗家を継いで将軍職に就きます。この折、通例であれば藩主として治めていた紀州藩を取つぶし抱えていた多くの家臣をすべて「幕臣」に再雇用して、自らの立場をより強固なものにするのですが、記録によれば彼が初めて江戸城二の丸に入った正徳六年から享保十年までの十年間に幕臣として編入された紀州藩士は二百五名にとどまりました。その内の二人に今回は焦点をあてます。

病弱であった父親が、早くに藩からお暇を戴いていた事情もあって叔父・田代七右衛門の養子となっていた意行(おきゆき)は、藩士とはいえ足軽の軽輩にすぎなかったのですが、誰かの有力な口添えでもあったのか、藩主・吉宗は将軍家の相続にあたり彼を供奉団の一員として採用し、正徳六年六月二十五日”御家人”に列することとなって三百俵の碌を頂く身分(小姓)となったのです。更に吉宗が、長男・家重(1712〜1761)の小姓に抜擢したことが意行の息子・田沼意次(1719〜1788)の数奇な人生を決定づけたとも言えます。とかく良い噂の類を聞くことの無い人物の代名詞ともなっている田沼ですが『質素倹約』の四文字に象徴される窮屈な吉宗時代を経験した大衆の多くが、軋轢や格差が生まれるにせよ経済・商売を中心にして動く世の中の仕組みを歓迎していたことは確かなようで、何より好況は人々の様々な分野での活動を強く推進しました。

「自由」を謳歌したのは町人百姓にとどまりません。オノコロシリーズの常連・大田南畝(おおた・なんぽ、1749〜1823)が随筆集『金曾木』(文化6年12月記)の中で、

  明和の初め、旗下の士、大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門らと大小の刷り物(絵暦)をなして、大小の会(絵暦の交換会)をなせしより、
  その事、盛んになり、明和二年(1765)より鈴木春信吾妻錦絵というを描きはじめて紅絵の風一変す

と明記しているのは、当時、大身の旗本であった大久保忠舒(千六百石、俳号は巨川)が、同好の士の先頭にたって「絵暦」に関する技法、とりわけ色付き版画の開発にのめり込んでいた事情を回想したもので、好事家たちの間で盛んにやり取りされていた『刷り物』が「錦絵(浮世絵)」版画の原点になったことを教えてくれます。(江戸時代の暦は『大の月』が30日『小の月』が29日と決められており、大久保たちは年始の挨拶状の代わりに毎年趣向を凝らした絵入り、図入りの暦を自費で出版し交換会もしばしば開催しました)南畝の詩文集『寝惚先生之集』(明和4年刊)に序文を寄せた風来山人・平賀源内(1728〜1780)も、大久保・鈴木の錦絵プロジェクトに非凡な想像力を携えて参加していたようで、いまだに多くの謎に包まれた殺傷「事件」さえ起こしていなければ、恐らく19世紀初頭まで江戸の絵画界の牽引車になっていたことは間違いないと思われます。また、平賀が二代目瀬川菊之丞とは深い仲だったそうですから、歌舞伎の世界を題材にした資料となる著作を幾つも残してくれた可能性も十分あったと言えます(後、江戸方角分を南畝の許に持ち込んだとされる瀬川富三郎は一門に属していました)。

判じ物? 絵暦  平賀源内さん

政治家・吉宗が経済と同等に重視したのが「情報」管理の分野で、二百五名のうち十七名までが「御機密の御主意をこうむり」「もっぱら御内々御用相勤めまかり在る」薬込役だったことが如実に彼の関心の在りどころを示唆しています(城下の生の声を聴くための[]を初めて設置したのも吉宗でした)。将軍の肝いりで発足した隠密御用任務の御庭番十七家の一つ倉地家は、文左衛門満房を祖とし享保三年五月に吉宗の母親浄円院が江戸入りした際に供奉し広敷伊賀者に任命されていますが、彼の孫で明和2年(1765)に家督を継いだ政之助満済という人物が二人目の主役です。上方の絵師、西川祐信に学び繊細で洗練された描写に長けていた春信(1725〜1770)は、錦絵という表現手段を得て後も様々な作品を世に問い評価を一層高めましたが、中でも、子供たちの間で流行り歌にまでなった、とびきり美しい娘の浮世絵はまさに一世を風靡したのです。

  向こう横町のお稲荷さんへ。壱文あげて、ざっと拝んで、お仙の茶屋へ。腰を掛けたら渋茶を出して、
  渋茶よこよこ横目で見れば、米の団子か土の団子か、お団子、団子。……とうとう鳶にさらわれた。

ここで唄われている「お稲荷さん」というのは江戸谷中にあった笠森稲荷神社のことなのですが、南畝自身も『半日閑話』巻十二の中で次のように述べています。

  谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙(十八歳)美なりとて、皆人見にいく。家名鎰屋五兵衛という。錦絵の一枚絵、あるいは絵草子、双六、よみ売りなどに出る。手拭に染める。
  飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形にも作りて奉納す。明和五年(1768)五月堺町にて中島三甫蔵が台詞に言う、采女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙と云々。
  これよりしてますます評判あり。その秋七月森田座にて中村松江おせんの狂言ありて大当たり。

要するに華のお江戸で人気を独り占めにした茶屋娘が居たわけですが、それには鈴木春信が錦絵版画のヒロインに彼女を選んだことが大きく影響していたと考えられます。何しろ、当時の娯楽の中心だった歌舞伎芝居の役者までが登場人物の口を借りて「お仙」の名前を声高に呼ばわり、ついには「おせん」を題材にした狂言まで上演されたと言うのですから、その人気ぶりの凄さが伝わります。春信の描いた「おせん」シリーズの作品群は正に飛ぶように売れたのです。ところが…、人気絶頂にあった彼女の姿が神隠しでも遭ったように突然店先から消えてしまいます。南畝は、

  明和七年庚寅二月、この頃≪とんだ茶釜が薬缶に化けた≫という詞はやる。
  あんずるに、笠森稲荷水茶屋のお仙他に走りて、跡に老父居るゆえの戯れこととかや    『半日閑話』

と書き残していますから、事の真相を知らなかったと思われますが、実は、笠森稲荷の門前にあった茶屋周辺の地主が紀州出身の御庭番・倉地家で、この時、同じ御庭番仲間である馬場家の二代目善五兵衛信富を仮親として、上で見た倉地政之助の許に嫁いでいたのです。政之助自身が紀州に残っていた倉地一族から二代忠見の養子となっていたようですから、義父の忠見は自家の命運を託す「三代目」に、これ以上は望めない程の花嫁を事前に用意していたものと想像されます。錦絵プロジェクトの一員だった源内と親しかった田沼意次が側用人となり二万石の相良城主となったのが明和四年、そして老中格に上ったのが明和六年のことです。春信には知らされていなかったのかも知れませんが、将軍家治の懐刀として御庭番の情報を一手に掌握していた意次が、源内を通して、それとなく「お仙」にまつわる噂話を誇張して伝えていた、或いは版元の意向として「お仙」を描く方向に誘導していた可能性は大いにありそうです。(人気者がいれば人が集まり、人が集まれば情報も集まります。情報こそ御庭番の求めるものです)宣伝戦の原点と言って良いかも知れません。同じ明和七年五月、突然、春信の訃報が伝わりました。筆まめな南畝も浮世絵誕生に大きく貢献した彼を讃えた文章を残していますが、その死因については口を閉ざしています。享年四十五。

笠森お仙(鈴木春信作)

老中にまで上り詰めた意次でしたが将軍が代替わりすると坂を転げ落ちるように権力の中枢からはじき飛ばされ、幕府の舵取り役に就任した松平定信(1759〜1829)たちによる寛政の改革が天明七年(1787)に始められます。吉宗の孫である定信が目指したものは当然、祖父の「質素倹約」に輪をかけた緊縮財政とお上の威光による統制の強化でした。山東京伝と出版元の蔦屋重三郎が洒落本『仕懸文庫』などにより手鎖五十日と身上半減のお咎めを受けたのが寛政三年のことでしたが、翌四年正月江戸北町奉行に小田切土佐守直年が着任します。表向き何の変哲もない官僚人事のように見えますが、大阪東町奉行を天明三年四月から勤めていた彼も、今回の主題と無縁ではありません。武士の子として駿府で産まれたとされる十辺舎一九(本名・重田貞一、1765〜1831)について曲亭馬琴(1767〜1848)が変名で綴った『近世物之本江戸作者部類』の中で、

  生国は遠江なり。小田切土州大坂町奉行の時、彼家にて仕えて浪華にあり。後に辞し去りて大坂なる材木商人某甲の女婿になりしが、
  其の所を離縁し流浪して江戸に来つ。寛政六年の秋の頃より通油町なる本問屋蔦屋重三郎の食客となりて、錦絵に用いる奉書紙に
  ドウサなどをひくを務めにしてをり。

と明言しているように、一九が大坂町奉行であった小田切に「仕え」た後、東洲斎写楽が登場した寛政六年(1794)蔦屋の「食客」として重三郎宅に居候していたことが明らかになっています。ここで馬琴は、同年の「秋の頃」から一九が蔦屋にもぐり込んだと述べており、一九が必ずしも其の頃「江戸に戻った」とは述べていませんから、「主人」であった土佐守の栄転と時期を同じくして将軍のお膝元に舞い戻っていたとも考えられます。彼が町奉行である主人に、どのような仕事内容で仕えていたにせよ、町で見聞きした事柄で奉行の耳に届けるべき情報があれば、全て注進するのが当たり前ですから、長年、大坂で培われた仕事意識は、一端主家を辞したとはいえ失われる性格のものでは無かったと思われます。一九が隠密だったとは断言しませんが、吉宗が種を蒔き育て上げた情報収集組織は着実に江戸っ子たちの生活の端端まで網の目を張り巡らせていたのだと分かります。『壁に耳あり、障子に目あり』は、単なる比喩ではなかったのです。

そんな八代将軍を浮世絵の「恩人」と呼ぶのは筋違いかもしれません。しかし、吾妻錦絵の誕生、浮世絵版画の流行、更には出版文化の興隆という十八世紀後半の躍動的な流れの中で、吉宗が意図しなかったにせよ情報社会への扉が大きく開かれたことだけは間違いありません。彼にまつわるオマケ話を一つ披露して、お開きにしたいと思います。お江戸名物の両国川開きが始まったのが享保十八年のこと。華々しさを好んだ市民から大歓迎されたそうなのですが、皆さんは、花火が打ちあがった時、どうして『かぎや』『たまや』の掛け声が掛るのか理由をご存じですか?……、そうです、花火を作っていた「鍵屋」と「玉屋」に因んだ掛け声でしたね。では、更に質問、では花火屋さんは何故、屋号に「鍵屋」を選んだのでしょう?ヒントは「お仙」さんの茶屋にあります。次の川柳も手掛かりになります。

  花火屋は いずれも稲荷の 氏子なり

初代鍵屋弥兵衛が生国の大和大塔を後にして江戸で開業したのは西暦1659年で、上京間もなく彼は幕府御用達となっています。その火薬技術は図抜けていたに違いありません。お稲荷さんのシンボル・狐は何かを銜えていますね。鍵と玉が一般的なのだそうです。笠森稲荷前の茶屋が鎰屋(かぎや)だったのには理由があったのです。

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