坐摩神社と闘鶏・都祁(都下)国造そして天津彦根命                        「サイトの歩き方」も参照してください

生活圏が関西にある方でも、余り馴染みのない神社の正式な呼称は「いかすり」と云うのですが、大抵の人は「ざま」神社と呼んでいます。所在地が大阪の中心部(旧東区渡辺町)でありながら社殿等の整備も進みビル街の一角とは思えないほどの穏やかな空間を維持できているのも全国に散らばった「渡邊さん」たちのお蔭なのかも知れません(下・左の画像)。社の由緒略記が記すように、もともと坐摩の社が建てられたのは天満橋の西、石町の辺り(ここが渡辺と呼ばれていた河の近く)だったのですが、天正十年(1582)豊臣秀吉が大阪城の縄張りを行い、城の敷地内であったため代替地への遷座を余儀なくされたもの。一般に宅神とされる坐摩の神ですが実は「生井、福井(さくい)、綱長井(つながい)、波比岐、阿須波」の五柱の総称が「いかすり」で、同社では、その意について「居所知=いかしり」が転じたものだと解釈しています。ただ一見して分かるのは「井」つまり「井戸=水」の神様たちが祭神の中核を成している事実です。またオノコロ・シリーズでも度々取り上げてきた『延喜式』(平安中頃、十世紀前半に成立、全五十巻)には、次のような文言が残されています。

  凡座摩巫取都下国造氏童女七歳已上者充之、若及嫁時申辨官充替    (「延喜式」三巻、臨時祭)

国の格式(律令)の施行細目の中で、特定の神社の巫女さんを選ぶ基準が定めてある例を他には知らないのですが、朝廷は明らかに坐摩神を祀る巫は『都下国造』の娘でなければならないと規定しています。古代史を少しでもかじった事のある方なら「都下(つげ)」の文字を見て、直ぐ、允恭帝の皇后と闘鶏国造の壱騒動を思い出されたことでしょう。日本書紀によれば、忍坂大中姫がまだ娘時代、母(弟日売真若比売命)と一緒に暮らしていた頃、たまたま家の近く(傍の徑)を馬に乗って通りかかった闘鶏(つげ)国造が、

  皇后に語りて、嘲りて曰く『能く薗を作るや、汝人』『いで、戸母、そのアララギ一莖』
    (意訳:『おじょうちゃんに、上手く畑が作れるのかね、作れやしまい』『ところで、あんた、そのアララギを一本、私におくれ』)

とぞんざいに語りかけた禮の無い態度を「心の内に」忘れず留めていた姫が「登祚」(ここでは立后の意味)の年に『昔日の罪を責めて殺そうとした』が、額を土に搶き叩頭して謝ったので「姓を稲置に貶める」ことで許してやったそうなのですが、いかにも在りそうで実は在り得ない話です。先ず、古事記・神武段は彼の息子・神八井耳命が、

  意冨臣、小子部連、火君、大分君、阿蘇君(中略)、都祁直‥‥などの祖

であるとは記していますが「闘鶏国造」の祖先であるとは言っていません。また忍坂大中姫は系譜上、稚渟毛二俣皇子の娘つまり応神帝の孫娘なのですから、若しも「闘鶏国造」が大和の国山辺郡都祁に地盤を持つ地方豪族であったなら、実力で大王の位を手中に収めたホムタワケ一族の娘(の屋敷)を知らないはずがありません。従がって、この「逸話」の背後には何らかの意図・作為が感じられます。では、その筆意の主旨はどのあたりに在ったのか、手掛かりになりそうな系譜が一つあります(右下画像参照)。

  延喜式  諸系譜   PR

それは国立国会図書館が収蔵している「諸系譜」の第一冊に納められている『東国諸国造・天津彦根之裔』と題された系図で、始祖・天津彦根命−−天目一箇命−−意冨伊我都命と続いた後、四代目の三兄弟の内の一人が上の画像に見える「彦己曽根命(ヒコオゾネ)」で、注意書きの部分に「凡河内国造、大縣主、都下国造等の祖」とあります。この意富伊我都命の嫡系は「彦伊賀津命−−阿目夷沙比止命−−川枯彦命−−坂戸毘古命」とつなぐ近江の三上祝家(御上神社)ですから、宮中で祀られる坐摩神の斎主が凡河内一族である可能性は高いと思われます。当オノコロ・サイトでは度々、天孫族と国譲り「神話」について取り上げ、所謂国譲りが「天孫」族と対立した「非天孫族」との間だけではなく、ニギハヤヒ神話が象徴している「天孫族内」での対立、国譲りもあったことを推理してきました。云うまでも無くニギハヤヒは後の「物部=モノノベ」たちが挙って太祖と仰ぐヤマト開拓の魁ですが、後から遣ってきた神武帝に「恭順」して盟主の地位をも「譲り」ます。この「神話」の原型、大元が出雲オオクニヌシの国譲りにある訳ですが、そもそもの遠因は天孫一族の三男・天若日子等が使命を忘れてオオクニヌシに媚び懐いた事にあり、天若日子は、より偉い神様の放った「矢」によって落命します。つまり天孫側の要求・願望に添わない者達は排除される(或いは支配下に置かれる)運命にあるという訳です。更に、この「命題」は記紀の至るところで繰り返し表出されます。それは例えば、

  @ 手足がわなないて當芸志美美を殺せなかった兄の神八井耳命は、弟(綏靖)を扶けて「忌人」となって仕えた=都祁直は、その子孫である。
     神武の二人の息子が「八井」という名称を持っている。又、綏靖も「沼河耳」という名で、いずれも「井」「河」=水との関わりを示唆しているのが興味深い。
  A 仲哀帝の息子である香坂王と忍熊王は、神功皇后と応神帝に刃向ったため滅ぼされた。
     その応神帝の孫娘・忍坂大中姫に不敬を働いた闘鶏国造が稲置の姓に貶められ、一命だけは何とか取り留めた。
  B 天皇の命に背いて、弟(仁徳)を殺して天下を獲ようとした大山守皇子は宇治川の流れに沈んで亡くなった。
     土方君、榛原君、日置朝臣は大山守皇子の子孫である。=兄の額田大中彦皇子の子孫は知られていない(額田部氏は天津彦根命の後裔)。
  C 凡河内直味張安閑帝の皇后の屯倉に相応しい田を差し出すように求められたが、己の田が惜しくて良田は無いと嘘をついて逃れようとした。
     後、この虚偽の申告が明るみに出て、味張は公職を解かれそうになり、多くの田と労働力を提供することになった。

などの記述に明らかなのですが、総じて言えることは「応神帝」の血脈(の正統性)を称える意図が明確だという点です。そして、対照的に天若日子の実体ではないかと推察される天津彦根命を始祖に持つ「凡河内国造」の一族が所謂「悪役」を受け持たされている事も明らかです。この状況を一言で表したものが、古事記の伝える、

  僕が子等、二柱の神の申すまにまに、僕は違えじ。この葦原中国は、命の随に既に献らん。僕は百足らず八十くま手に隠りて侍いなん。

という大国主の最期の言葉だと思います。素直に読めば、領土の支配権は貴方に譲り、私は祀り事に専念しましょうと「約束」した(させられた)のだと解釈できます。そこで再び、坐摩の「井」に話を戻したいのですが、少しだけ寄り道をします。忍坂大中姫の夫は允恭帝ですが、彼は、他の大王と少し毛並が異なる名前の持ち主です。それは「雄朝津間稚子宿禰(オアサヅマワクゴスクネ)」というものなのですが「稚子」「宿禰」はいずれも尊称のようなもので「雄(お)」も「兄弟の長幼」を表した文字だと考えられますから、允恭帝の真の名前は「朝津間(アサヅマ)」だという事になります。岩波版『日本古典文学大系』の編集者は、彼の名前が「大和国葛上郡の地名」に由来したものだと解説していますが、これが奈良県御所市の「朝妻」だとすると彼は葛城一族と近しい関係にあった大王の一人だと考えられます。資料によれば「和名抄」にも記録された「置(ヘキ・ヒキ)」が朝妻周辺を表した地域名らしいのですが、つい先日(平成23年11月)御所市條の中西遺跡から凡そ20,000uを超える弥生時代前期(約2,400年前)の水田跡が発掘され、大きく報道されて古代史ファンの注目を集めました。そこは葛城川を挟んで朝妻の東北に位置する場所にあり、古代葛城氏の台頭繁栄を可能にした高度な水稲耕作地の一つだった事が分かりました。従来、古代権力が何故、大河川の周辺ではなく山間部の「不便」な土地に発生したのか不思議だったのですが、今回の発掘結果を見て、大きな河川は水の管理制御が難しかったので古代の人々は「敢えて」山間の灌漑しやすい場所を耕作地に選んだのだという事実を実感することが出来ました。鉄の農具を持たない彼等には大きな河川の流れは災害の源以外の何物でもなかったのですね。閑話休題。

一方、朝妻を鍵にすると九州久留米の高良神社が重要な関連先として急浮上するのですが、風呂敷をそこまで広げると収集がつかなくなりますので「井戸」と「日置」に戻ります。「新撰姓氏録」は日置朝臣を「応神皇子大山守王の後なり」(右京、皇別)とし、出雲風土記は出雲郡大領の氏名を日置臣佐底麿と伝えますが、他方、同じ「姓氏録」が和泉国の日置部を天櫛玉命の男、天櫛耳命の後と伝え、尾張国愛知郡の日置神社の主祭神は天太玉命となっています。これらは一見、それぞれ別個の神様を祖先にしているように見えますが、臣を名乗る出雲の大領は恐らく朝廷中央から送り込まれた支配層(官僚)だと思われ、日置部の祖とされる天櫛玉命(アメノクシタマ)は、明らかにアマツヒコネの別名であり、日置神社の祭神・天太玉命は忌部氏(斎部)つまり物部氏の祖先に他なりませんから『日置』も神話と同様、支配被支配の二重構造になっていた訳です。この「ヘキ」の解釈を巡っては様々な説が市井でなされているようですが、今回の主題(ツゲ)に即して類推するなら、やはり「迎日」を抜きにして語ることが出来ないと思います。そして、その様に見てくると大山守皇子の兄・額田大中彦皇子と氷室の逸話が思い越こされます。

仁徳六十二年、闘鶏(ツゲ)で狩りをしていた皇子は野の中に「廬」のような形をした物を見つけます。使いの者を見にいかせてみると、それが「窟(ムロ)」だと分かり、皇子は地域の実力者・闘鶏稲置大山主を呼びつけ、何のためのモノかを尋ねると『氷室』ですとの答えがあったので、皇子は珍しい氷を天皇に献上したというお話です。何故この話と「迎日」あるいは日置がつながるのかと言うと、皇子が狩りをした所の地名「闘鶏」は、どうやら固有の名前ではなく「ツゲノ」を意味する言葉らしいのです。この「ツゲ」が朝を「告げる」日の出に因む命名であることは容易に想像できます。ツゲノは又「トガノ」とも呼ばれ仁徳紀、神功紀にも登場することは別のページで詳述しましたが、日の出とは直接関係は無いものの「夢」「占い」「うけひ」に関連付けて語られることが多く、それらに相応しい場所として認識されていたことが分かります。管理人は「ツゲ・ツゲノ・トガノ」と呼ばれる土地が元々は巫覡など霊感の高い人物が神意を窺うために設けた「聖域」のようなものだったと考えています。応神に反抗して謀反を企てたとされる香坂王たちも菟餓野に出て「祈狩(うけひかり)」を行っている最中に赤い猪に喰われて亡くなり、弟が大王に刃向った末亡くなったと伝えられる額田大中彦皇子も「闘鶏」野で狩りをしている折、珍しい物に出会い、またヤマトの都祁とは全く異なる兵庫の夢野・トガノに伝承を残しています。「日を置く」場所は大変神聖な忌み所だったのでしょう。最も単純に「朝日」を迎え、一日の始まりを言祝ぐ場所だったと考えて良いのかも知れません。垂仁三十九年十月、五十瓊敷入彦皇子は茅渟の河上で「裸伴(あかはだとも)」と呼ばれる剣一千口を作りますが、その時、日置部を含む「十個品部」を大王から下賜されています。そして、その剣は一旦全て「忍坂邑」に蔵められたと伝わります。そぉ、大中姫の故郷の忍坂は、大王一族の武器庫でもあったのですね。闘鶏国造との騒動は、ヤマトの「日置」を率いていた氏族が「応神」一族の支配下に下った事情を暗示しているのかも知れません。坐摩社が元々建てられていた「渡辺」の川向う一帯、今の大阪市役所の北側周辺が古代の「ツゲノ」だったと考えられます。仁徳帝の都は難波高津宮ですから菟餓野に住む「鹿」の鳴き声が聞こえた可能性は大です。

オオクニヌシのお膝元、旧簸川郡斐川町直江(銅鐸銅剣の大量出土で有名な荒神谷遺跡の西北西約4qほどの場所)に,御井神社が鎮座しています。この小社は大国主(正確には大穴牟遅命)と八上比売の息子・木俣神を祀っているのですが、社の近くに「生井」「福井」「綱長井」の三泉があって八上比売が子供に産湯を使ったとの言い伝えもあり、近隣では安産の神様として知られています。坐摩の祭神も神功皇后の「安産」にご利益があったそうなので、三つの井戸には「新たな命」を授け、多くの福と長寿を約束する神徳が備わっているのでしょう。家族一族に新しい命が芽生えれば、それは一家の繁栄に他なりません。地中からこんこんと湧き出し枯れることのない清らかな井戸の水こそ、生き物すべての生命の源であると古代の人々も考えていたのでしょう。ところで、祭祀の原点の一つに祖霊への労いの心があるのだとすると、坐摩の神々を祀った凡河内一族の都下国造にとって「波比岐神・阿須波神」の両神が先祖であったに違いありません。天孫族と出雲の神様が同じ「思想」のもとに「井戸の神」を尊んだ背景には、アマテラスの「弟」役を割り振られたスサノオの存在があったと見るべきなのか、今一つ自信はありませんが、坐摩社の正面に建つ三つ鳥居が「三泉」の象徴のように思えてなりません。


木嶋坐天照御魂神社(三柱鳥居)  大神神社  檜原神社

オマケ話をしましょう。三つ鳥居を持つ神社は坐摩だけではありません。実は、非天孫族の神様の社だと考えられている大和の大神神社にもあるのです(参道ではなく、拝殿奥の山中にあります)。また、三輪山の北方に鎮座している大神神社の摂社で「元伊勢」の社とも称されている檜原神社にも同じ形式の鳥居が建っています。三輪の神は言うまでも無く大物主ですから、一般的には天孫族の祖先神とは見られていません。一方、檜原の社はアマテラスを初めて祀った社に比定されているのですから当然、天孫族の象徴です。また、形式が少し異なりますが、京都太秦にある木嶋坐天照御魂神社にも三つ鳥居はあって、こちらは「神泉」を思わせる水の中に立てられています(正確には三本の柱で三角形を成している三柱鳥居)。社の名前から推測される祭神は太陽神、日の神様なのですが、どういう訳か天御中主命、大国魂神など四柱が祀られているようです。大阪茨木には新屋坐天照御魂神社という酷似した名の社がありますが、そこには三つ鳥井も三つ井戸もありません、その代わりと云うのも変ですが、社の鎮座している地名そのものが「福井」なのです。研究者の間では「ふくい」を「吹く」の意に捉えて金属加工との関連を重視した論説が多いようですが、東大寺の修二会を例に上げるまでもなく「神水」に寄せる古代人の熱い思いも忘れてはならないと思います。(元伊勢について書紀は『天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る』と崇神六年条で明記していますが、崇神が都した磯城水籬宮を桜井市金屋周辺だと仮定すると、檜原神社の位置はほぼ「北」に在って、天神を南郊に祀るという思想と相反した行為と言えます。垂仁二十五年三月条の一書が言う『先皇御間城入彦天皇、神祇を祭祀りたまうといえども、微細しくは未だ其の源根を探りたまわずして』の中味が具体的に何を指しているのか明確ではありませんが、三つ鳥居の存在と「天照御魂」神社の在りようから、若しかすると元伊勢に本来祀られていた神様は、天照国照御魂神つまりニギハヤヒではなかったのかとも推測されます)

本文で少し触れかけましたが、九州の高良神社の所在地は久留米市御井で、この神社の近くにも「高良の三泉(朝妻、磐井、徳間)」と呼ばれる神泉があり、そのうちの一つ味水御井神社の鎮座地が「御井朝妻」です。一方、浦島伝説で良く知られている丹後国与謝郡にはかつて「日置郷」が存在し、郷を構成する里の名に「朝妻」「筒川」そして「日置」が含まれていました。出雲の日置臣については先に述べましたが、出雲大社の南東近くに神門郡日置郷があり、出雲風土記が『欽明帝の時、都から日置の人々が派遣され,政を行った』所だと記録しています。北九州・出雲・丹波そして大和葛城更には難波を結びつける「御井・泉」「朝妻」「日置」「ツゲノ」などの存在は偶然とも思われません。ここまで書いて、日置は農耕社会に必要な「暦」の専門知識を持った集団だったようにも思えてきました。

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