児雷也の生みの親・感和亭鬼武と東洲斎写楽                       「サイトの歩き方」も参照してください。

昭和30年代の半ば、そろそろ新制中学校へ上がろうかという年頃の男の子にとって児雷也(じらいや、自来也)はごく身近な存在だった。雨の日は論外だが、お天気さえよければ誰彼とどんな約束をしてある訳でもないのだが、いつしか近所の子供たちが宿題もそこそこに街角の「広場」に群れてくる。適当な広い場所が無ければ誰かの家の石階段や、車の通りが少ない舗装してある道路でもかまわない。小脇に抱えたカンカン(ブリキ缶で蓋尽きの物)の中には、皆、それぞれ自慢の強ベン(つよべん=勝負に強い最後の切り札)が数枚と、昨日までの真剣勝負で遊び仲間たちから実力で巻き上げた百枚、二百枚の戦利品で溢れ返っている者もいれば、もう後がない空っ欠の宝箱を家に置いたまま、たった数枚の面子(メンコ)を堅く握りしめ「場」の様子を緊張した眼差しで見つめている者もいる。彼は、今日負ければ一文無しになりかねない、そして、それは明日の自分自身の姿でもあるのだ。メンコ遊びには実に様々な、複雑で地区ごとに微妙に異なるルールがあるのだが、あれだけ来る日も来る日も日が暮れかかるまで熱心に遊んだにも拘らず、その具体的な中身については欠片も思い出すことが出来ないのは何故だろう?、それはさておき。

児雷也は、江戸末期に大人向け?の娯楽雑誌として出版された読本に登場した主人公の一人で、研究者の調べによれば文化三年(1806)に感和亭鬼武(1760?〜1818?)という戯作者が世に出した『報仇奇談自来也説話』(前後編全十一冊)がどうやら初出らしい。そこで描かれているのは仙人から伝授された妖術を駆使して、宿敵と戦う若き盗賊の首魁の姿で、彼は「義賊」でもあるらしいのだが、子供たちが皆物語の詳しい内容を知っていた訳では無い。昭和の30年代は、そろそろ「戦後」の苦しい経済状況から抜け出し、人々の生活が多少なりとも上向きに転じた時期に当たりますが、その当時の面子の世界では@スポーツ選手(プロレス、プロ野球)、A映画スター、B漫画のキャラクターなどと並び「武将」ものも人気があり、今回取り上げた児雷也は「豪傑」「怪人」のような分野の面々と同じ範疇に入れられていた様にも筆者は記憶しています。また、貸本や映画などによる影響だと思われますが「忍者」や「真田十勇士」などを題材にしたメンコもかなり出回っていたので、それらのシリーズを構成していた人物の一人でもあった可能性もあります。

 感和亭鬼武:もともと武家の出だとされており、剣術の腕前は免許皆伝。寛政の初め頃、とある代官の手代となって奉公していたが、後に徳川一ツ橋家の勘定方に転身し
 たと伝えられている。通称は前野曼七(満七郎)で、本姓は倉橋羅一郎。別号に曼亭・飯顆山人がある。絵を谷文晁(1758〜1829)に学んだとも伝わっている。

鬼武が描こうとした自来也像の大元にあったものは「仇討」を果たすために、幾つもの困難を乗り越えて行く若武者の一途な冒険譚だと思うのですが、その「自来也説話」を下敷きにして美図垣笑顔(1789〜1846)と称する戯作者が、ほぼ二十年後に発表した『児雷也豪傑譚』(全43編)では、主人公が駆使する「蝦蟇の妖術」がクローズアップされ、宿敵「大蛇丸」との対決が物語の大きな山場を構成する筋書きとなっています。今でも作中の主人公が公刊を経て、多くの人に読み継がれて行く過程において様々な形に変身することは、まま有り勝ちなことですが、江戸時代の作者たちも常に読み手が望む登場人物像を手探りで求めていたのだと思います。また、先行した「自来也」は版元が大坂に在ったことも手伝い、出版の翌年には早くも大坂歌舞伎の出し物(『棚自来也談』)として舞台で演じられ、市川団蔵の好演もあって大いに評判となったそうですから、歌舞伎役者の演じた主人公の姿が、そのまま後の戯作に影響を与えた可能性は大いにあったのではないでしょうか(浮世絵に描かれた様子を見ると、明らかに石川五右衛門との類似性が認められます)。

自来也  大蝦蟇と児雷也  児雷也の浮世絵

桃太郎説話  貧福両道中記  方角分より

さて、自来也の生みの親とも言うべき感和亭鬼武ですが、江戸期の大多数の戯作者がそうであるように、この人も又、その詳しい素性や経歴などが知られていません。幾つかの作品を通して何とか実像の一部分らしきものは垣間見えてくるのですが、それもまた定かではないのです。とは言え、無いない尽くしでは話が前に進みませんから、WEBで知り得た僅かな手掛かりを元手に鬼武の足跡を辿ってみましょう。彼が、何時、一ツ橋家の御家人の身分からを隠居して戯作中心の生活に入ったのかは不明ですが、寛政期の前半に江戸の書肆蔦屋が出版した山東京伝(1761〜1816)の作品には、確かに「鬼武」の名前が目立つ場面に描かれています。江戸文芸の研究家によれば、寛政三年に蔦屋から販売された『一稚話三笑』の序文に「京伝門人、曼鬼武述」とあるそうなのですが、その翌年京伝作として刊行された『昔々桃太郎発端説話』(上中下三編)中編の作中には、上の画像でも明らかなように「鬼武画」の文字が認められます。また、寛政五年出版の『貧福両道中記』(山東京伝作、春朗画、全三巻)でも作中に「鬼武画」の場面が挿入されていますから、この時期、彼が山東京伝や蔦屋重三郎そして曲亭馬琴(1767〜1848)などと大変親しくしていたと推測されるのです。

戯作者としての人気を独り占めにしていた感のあった京伝でしたが、寛政の改革の真っただ中にあった元年に黄表紙に描いた挿絵が幕府の目に止まって「お咎め」を受け(過料)たのも束の間、同三年には洒落本三作が「禁令を犯した」として「手鎖五十日」の重い処分を受けています。一旦は弟子入りを断られた馬琴が自宅を洪水で失くした後京伝の家に住み込み、失意の京伝を側で支えて代作を行ったとされていますが、恐らく鬼武も何らかの形で京伝(と蔦屋)の創作活動を覆面作家として支援し、その見返りのようなものが作中での名前の表示(宣伝)だったと考えても不自然ではありません。江戸でも屈指の版元に成長していた蔦屋の耕書堂でしたが、幕府から「財産半減」の厳罰を科せられ先行き不安に陥っていたと思われる正にその時、世間の意表を突いた東洲斎写楽という無名の浮世絵師が、独特のタッチで描いた役者の大首絵が、寛政六年五月の歌舞伎興行に合わせて蔦屋から一挙に販売されました。その版画に登場する俳優たちの表情は、それまでの唯々「美しく」「華麗」で「優雅」な人気役者像とは異なり、芝居の一場面で役者が見せる一瞬の表情を冷徹な観察力で捉え、更に作者独自の誇張を含めた描写方法で表出した、とても人間臭い生きている役者の個性そのものと言って良い内容のものでした。それには当然役者側からの反発も生まれたに違いありません。また、偶然なのか前年には大坂で材木商の入り婿となっていた十遍舎一九(1765〜1831)が商家を離縁して江戸に戻り、写楽の浮世絵版画が大々的に売り出された寛政六年には蔦屋の食客となって、山東京伝の執筆した読み物の挿絵を画く仕事を任されるようになっていました。

読者の皆さんも、写楽研究家たちにとって無くてはならない唯一の同時代資料に『諸家人名江戸方角分』という写本があることはご存知かも知れませんが、その「浅草」の項に「『戯作者』印 鬼武 千光院地内 前野曼七」とあり、方角分が編まれた文政元年頃までには既に亡くなっていた事が鉤印(故人の印)から知ることが出来ます(上の画像参照)。写楽の登場を待っていたかのように出版界、戯作者の集まりから姿を消し、ほぼ十年の空白期間の後、享和二年に再び執筆活動を再開して「自来也」を世に問うた鬼武は、本当に不思議な人物であることだけは確かなようです。彼自身「絵を谷文晁に学んだ」と語っていたと伝えられていますが、谷は天明八年(1788)に五人扶持の俸給で徳川田安家に出仕しています。その田安家は幕府老中の地位に登った松平定信(1758〜1829)の実家でもあり、大田南畝と共に天明狂歌の興隆に大きく寄与した唐衣橘洲(本名・小島謙之、1744〜1802)自身、田安家の家臣だったのです。そして更に文晁は鬼武が文芸の世界で少しは知られる存在になった寛政四年(1792)、松平定信の御眼鏡に適って近習に取り上げられました。御三卿の一角を占める一ツ橋家で勤めていた経験を持つ鬼武が、谷との交流を通して南畝や京伝たちと親しくなったと考えることは決して不自然ではありません。戯作者として江戸で活躍できる環境が整いつつあったにも拘らず、鬼武は寛政中頃忽然と消え、そして復活するという離れ業をやってのけたのですが、空白の十年、彼は何処で何をしていたのか?、謎が謎を呼びます。彼は写楽の正体を知っていたと筆者は考えているのですが、皆さんはどのように判断されることでしょう。

おまけ話を一つ。鬼武が戯作の世界に戻ってきた時には、自分を文人の端くれとして育て上げてくれた、恩人とも言うべき蔦屋重三郎は、病が本で寛政九年に亡くなっていました。彼の復帰作『異療寝鼾種』(全三巻)が耕書堂ではなく山口屋から出版された要因も、蔦屋の不在が大きかったのではないかと思われますが、この作品の挿絵は十遍舎一九が担当しています。享和二年と言えば一九は自らの出世作である『東海道中膝栗毛』の販売が始まった年に当たり、一九は取材や執筆、校正などで多忙を極めていたはずなのですが、旧友の好を大切にした人情家でもあったのでしょう。

それにしても大きな口から炎を吐き出す蝦蟇という設定は、昭和のゴジラにも匹敵する怪獣界の王者と呼ぶにふさわしいと思いませんか!

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