ズンドコ節と本居宣長そして忠臣蔵異聞                                  サイトの歩き方」も参照してください

はてさて面妖な。このような奇をてらった見出しで読者の興味をひこうというのは、中身に自信がない書き手のさもしい魂胆が見えみえではないか、と思われることでしょう。が、存外、無関係のこじつけ話ではありません。ともかく、ご覧ください。

旧制山口中学校(現在の県立山口高等学校)に進み、和歌を創作活動の中心に据えていた詩人・中原中也(なかはら・ちゅうや,1907〜1937)は、母校の校庭で無心に遊ぶ後輩たちの姿を見て、

  来てみれば 昔の我を 今にする 子供もありけり 夕陽の運動場

という一首を詠んでいますが、管理人が小学生時代を過ごした市立小学校は、西側に校門があり中央の校庭を囲い込むような形で三方に校舎が建てられ、それぞれに名前が付けられていました。名前の由来になったものは校舎前にそれぞれ植えられていた植物、というか樹木の種類に因んだもので、それらは『常盤校舎』『柳校舎』『桜校舎』と呼ばれていました。確か正面中央の常盤校舎のみが鉄筋コンクリート造りの本格的な建物で、職員室や図書室、放送室、給食室などの学校運営に必要な施設が全て収められ、一階は一年生が、二階を六年生が教室として使っていたような記憶があります。桜の木木が窓際一杯に植え込まれた木造の桜校舎は一階に二年生、二階に五年生が入っていました。五年生の時、その一番西の端にある教室で一年間学んだのですが、校舎前にあったはずの桜が咲いた風景が、全くもって記憶にありません。校門脇の砂場、家から近い山の頂あたりに群生していた桜の木木が春休み頃には満開だった思い出はあるのですが…。ということで今回は「」が主役を務めます。

桜が日本を代表する花であることに何ら異論はないのですが、では、ずうーっと昔からそうだったのか、という点になると事情は少し異なってきます。と云うのも、古代歌謡の集大成である、あの『万葉集』に収められている和歌をみても「桜」を主題にした作品は五十首に満たず「萩」の百数十に比べても大分見劣りします。それは何故か?青によし、奈良の都がお手本とした理想の先進国はお隣の大陸国家そのものであり、当時の朝廷はこぞって大国の文化摂取に大童だったのです。そして、柿本人麻呂さんのページなどでもお馴染みの桓武天皇(737〜806)が都を平安京に遷されたときも、内裏には『左近の梅、右近の橘』が植えられていたのです。縄文弥生の頃がどうだったのか、は審らかではないにしても、遣唐使の時代の「花」が「梅」であったことは確かなようです。この唐風の好みに変化が訪れたのは、どうやら九世紀中頃が一つの節目になっているようで『三代実録』貞観十六年(874)八月二十四日の記述には「紫宸殿前の桜が大雨風のため皆倒れた」とありますから、この頃までの間に「左近の梅」に代わり「左近の桜」が咲いていたことが分ります。遣唐使の中止(894年)が「国風」文化の醸成につながったのか、それとも「国風」へのこだわりが遣唐使中止の決定を生んだのか、その辺は卵と鶏のお話になりますが、それはともかく所謂、平安の御世には、梅から桜への大転換が実現していたのでしょう。(「右近」「左近」というのは、当時、天皇の住居であった紫宸殿の前庭の辺りに近衛の兵が左右に陣を敷いた故事から来ているものです)

桜、さくら、弥生の空は  奈良時代の「花」は梅でした   PR

『東風吹かば』(菅原道真すがわら・みちざね,845〜903)の歌のようには有名でもありませんが『古今和歌集』の代表的歌人や、皆さん方もよく「古文」の教科書で名前を見かけたはずの人たちも「桜」を取り上げ、次のように詠っています。

  世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし     在原業平

  桜花 散りぬる風の 名残には 水無き空に 波ぞ立ちける         紀貫之

  いつの間に 散りはてぬらん 桜花 おもかげにのみ 色をみせつつ  凡河内躬恒

  神代には 有りもやしけん 桜花 けふのかさしに 折れるためしは    紫式部

  昨日まで かけてたのみし 桜花 一夜の夢の 春の山風          藤原定家

  たれ見よと なお匂ふらん 桜花 散るを惜しみし 人もなき世に      赤染衛門

それぞれに詠われた時の状況などが異なりますから一概には言えませんが、やはり「桜」を取り上げる場合、その「散りゆく風情」が歌人たちの心を捉えていたと思われ、春を愛でるとともに、一陣の風にさえ花びらを散らす「はかなさ」、そして花を散らしてまで人の心を楽しませてくれる桜への愛着のようなものが、これらの作品からは感じ取ることが出来ます。余り難しく考えず…要するに、皆、桜という花が好きだった、ということでいいでしょう。ただ、これらは飽く迄も貴族社会を中心とした世界でのお話で、我々、一般大衆が桜を愛でて一句歌うまでには、まだまだ時間がかかったのです。春の風物詩「お花見」を語るとすれば、あの太閤秀吉(ひでよし,1536〜1598)の観桜宴(吉野そして醍醐)に触れなければなりませんが、…今回は素通りします。

桜の下で腹を切る「判官」、忠臣蔵の演出

正に斬りかかろうとする判官 判官切腹の場面   人気の出し物

そこで突然、忠臣蔵にお話が移ります。ご存知のように二世竹田出雲(たけだ・いずも,1691?〜1756)が書き上げた『仮名手本忠臣蔵』(かなてほんちゅうしんぐら)は、元禄十五年(1702)に起きた赤穂浪士の吉良邸討ち入りを題材にしたもので、ほぼ半世紀後の寛延元年(1748)八月、大阪・竹本座で人形浄瑠璃として初演され、すぐ歌舞伎芝居にも取り入れられ人気を博したのです(江戸の森田座でも翌年には上演されています)。ところで、今現在でも、お芝居の『忠臣蔵』と、現実に江戸城内で起きた刃傷事件とを混同している記述が多く見られるようなので、先ず「事件」の概要を述べてから、芝居の方に移ることにします。事件は次のようなものでした。

  播州赤穂の藩主、浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり,35歳)は

  勅使(天皇の使者)のご馳走人の役目を仰せつかっていたが

  元禄十四年(1701)三月十四日午前十一時頃、江戸城・松の廊下において

  上司にあたる吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしなか,61歳)に向かい

  『この間の遺恨覚えたか』と言いつつ斬り付け、吉良に傷を負わせた

朝廷からの使者を迎える晴れの場で刃傷事件を起こしたことで時の将軍も激怒、直ちに浅野は田村右京太夫の屋敷に預けられた後、定法により切腹させられた訳です。そして、藩取り潰しの後、浪人となっていた旧赤穂藩士による討ち入りが翌年十二月十四日未明に決行されたのですが、竹田出雲たちは浅野が残したとされる辞世、

  風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん

を格好の材料と考え、歌舞伎「忠臣蔵」四段目に「判官切腹」の場をしつらえ、舞台効果を盛り上げる趣向として大量の花びら(桜)を判官(浅野に擬した役柄名・塩谷判官)の頭上から舞い散らせたのです。そして更に、この場面で語られた、一言が大衆の桜に対する思い入れを一気に増幅させたと考えられています。しかし、管理人は、それだけが観客の心に訴えかけたのではないと考えています。何故なら「忠臣蔵」の番外編とも言える「十段目」に、出雲たちの言いたかった心情がよく表れていると思うからです。この「十段目」は、最近では余り上演されないと聞きますが、それは、内容が討ち入りの本筋ではなく、そしてまた主人公が赤穂の浪士そのものではなく、只の一般人だからなのかも知れません。では、その荒筋をご紹介してみましょう。ただし、これは、お芝居の筋書きであり、現実ではありません、念のため。(天川屋のモデルとなった人物は、大坂商人の天野屋利平だとする説がありますが、真偽のほどは不明です)

天川屋義平は男でござる花は桜木人は武士と申せど

大阪商人・天川屋の店に奉行所の捕り手(実は由良助が送り込んだ偽者)が押し入り、

  子供の由松を人質にして

  義平の店に「赤穂浪士から頼まれた武具」があるはずだ、白状しろ

  さもないと、この子供の命がどうなるか分らないぞ

と大変厳しい詮議(取調べ)をするのですが、義平は、それに一切動じることもなく、

  『天川屋の義平は男でござる。子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは得申されぬ』

の名台詞で啖呵を切るのです。そして、彼の本心を試し感服した大星由良助(大石内蔵介に擬した役柄名)は、義平の前で平伏し、次のよう賞賛します。(つまり一介の商人に対して、藩家老まで務めた武士階級の代表格が最上級の礼を行った訳ですが、これは、現実の世界では到底考えられない稀有な出来事です)

  花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士にも及ばぬご所存。

  貴公の一心を借り受け、我が手本とし、敵・師直を討つならば、たとえ岩石の中に籠り

  鉄洞の内に隠るるとも、やはか仕損じもうすべき

「忠臣蔵」が最初に演じられた場所が大坂の地であったことが、出雲たちの脚色・演出に少しも影響を与えなかったとするのは早計に過ぎますが、その点を割り引いても、当時、富に実力を付けてきた商人たちの心意気が軒昂であったことが窺えます。由良助の台詞を額面どおりに受け取れば「元禄の世には、既に武士らしい武士は存在しなかった」と、武士以外の者たちが考えていた証と言えるかも知れません。そして、何より商人・庶民たちは、皆、桜の花が好きだったのに違いありません。また、少なくとも十八世紀初頭頃までには「忠臣蔵」の登場人物が語ったように『花は桜木、人は武士』という比喩が広く一般にも使われていた可能性が十分考えられるのです。

桜大好き人間だった本居宣長さん

お芝居の世界だけでなく、学問の世界でも「桜」は国花としての座をゆるぎないものとしていました。評論家・小林秀雄(こばやし・ひでお,1902〜1983)の随筆『さくら』(「朝日新聞」PR版、1963年4月28日号)によれば『古事記伝』の著者として知られる国学の大家・本居宣長(もとおり・のりなが、1730〜1801)は、大の桜好きで数え切れない程多くの桜を愛でた歌を残したとされます。その桜好きは宣長が「遺言」の中で『私の墓の後には桜を植えよ』と明言していることでも明らかなのですが、彼が還暦を記念して残した自画像の賛にも、有名な次の一首が使われています。

  敷島の 大和こころを 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花

この歌の「解釈」を廻っては明治維新以降、半ば恣意的に「国家」至上主義、精神主義に直結させた、極端な「考え方」の権威付けに利用された憾がありますが、小林秀雄も言っているように、彼は本当に「桜という花が好き」でたまらず、自画像に上の一首を副えたのも、桜という花を自分は大いに好んでいるのだ、という心情を皆にも知ってもらいたかったからに他ならず、理屈抜きに、ただ勇ましいだけのスローガンなどとは一切無関係の素朴な心根の表現だと考えるのが一番自然です。しかし、維新を経験した国家が『富国強兵』を最優先の課題・国是としたことは周知の事実で、当然のように「国花」としての桜も、次のような歌の中で象徴的な役割を与えられることになります。

  朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男児と生まれなば 散兵線の花と散れ

お若い方、に限らず、殆どの方はご存知ないでしょうね。これは明治時代の末頃に作成された『歩兵の本領』という題名の軍歌で、作詞者は加藤明勝という人です。そして、その加藤さんが陸軍幼年学校の十期生だったと言うことですから、この歌詞が生まれた背景には徳川斉昭(とくがわ・なりあきら,1800〜1860)の側近であり、安政の大地震で亡くなった尊皇攘夷の魁とも言える水戸藩出身の藤田東湖(ふじた・とうこ,1806〜1855)の『正気之歌』があったことが容易に想像されます。その作品は、藤田が江戸向島にあった牢獄に閉じ込められていた時に詠んだものだとされ、詠い出しは次のようなものです。(孫引きなので文言に誤りがあるかも分りません。また「万朶(ばんだ)」という耳慣れない漢語は、数え切れないほどにも花を付けた枝の意です)

  天地正大の気、粋然神州に鐘る。秀でては不二の嶽となり、巍巍千秋に聳ゆ。

  注いでは大瀛の水となり、洋々八洲を環る。

  発しては万朶の桜となり、衆芳與に儔し難し。

  凝つては百錬の鉄となり、鋭利兜を断つべし。

日清・日露の戦争を経て欧米列強に追いつけ追い越せを目標とした帝国が一層軍事力を強めていく中、正式な軍歌ばかりが世を風靡した訳ではありません。元々、作詞作曲不詳の次の歌謡が、一体何時ごろから歌われだしたものなのか?WEBでも随分と探してはみたのですが、遂に分りませんでした。では『海軍小唄』の二番を紹介します。

  花は桜木 人は武士 語ってくれた人よりも

  港のすみで泣いていた 可愛いあの娘が目に浮かぶ

陸軍の「軍歌」が、飽く迄も軍人の本分について権力の立場から「建前」を押し付けようとしているのに対し、こちらは海軍の軍人それも徴兵され故郷を離れざるを得なかった一兵卒たちが、勝手に巷で歌われていた(かも知れない)戯れ歌の節回しを採譜し、それに「軍人」としての心得などではなくただの庶民、一個人としての生の感情を表した、言わば己の素顔を曝け出した本音とも言える歌詞をあてはめ、誰彼となく歌い続けているうちに「海軍」「小唄」に成長したものだと管理人は推理しています。そして何より、この歌が「恋の歌」であることが先の軍歌との決定的な相違点でもあります。そこには、自分の帰りを「待ってくれている(であろう)」人への、遣り切れない思いが込められているのです。更に言えば、本当は、そのように「待ってくれている」人がいない者にとって「そうであれば」良かったのに、という願望も込められていたのかも知れません。更に重要な点はゴチックで記した歌詞の部分で「花は桜木 人は武士」を語る人が否定されている、つまり建前の綺麗ごとだけを言う「人」(世間体を気にする一般常識人=大人)の意見よりも、優先される存在が別にあるのだ、という考えがはっきりと歌われている点です。

甦る「海軍小唄」、ドリフそして、きよし

ここまで読んで、既にお気づきの方もあると思いますが、戦地に赴かざるを得なかった男たちの本音と願望を自由直截に表現した『海軍小唄』は、戦後すぐに田端義夫(たばた・よしお,1919年生まれ)によって『ズンドコ節』と名を代え復活しました。軍によって歌わされた「軍歌」ではなく、自分たちで作り上げた歌謡への愛着は、終戦そして外国人による占領という既存のあらゆる価値観が崩壊し変質してゆく過程においても消えることはありませんでした。何故なら、それは小唄の本質が恋歌だったからに他なりません。田端の「小唄」の歌詞が、次の歌いだしを含め「海軍小唄」と殆ど同じであったことが、それを証明しています。

  汽車の窓から 手をにぎり 送ってくれた人よりも 
  ホームの陰で泣いていた 可愛いあの娘が 忘られぬ

昭和35年、一人の映画俳優が今度は特別攻撃隊(特攻隊)の隊士たちが愛唱していたと謂われる軍国歌謡を引っさげて銀幕に躍り出ました。昭和31年6月、日活第三期ニューフェイスとして入社し、芸名を小林旭(こばやし・あきら,昭和13年、東京生まれ)と云った彼が『流れ者シリーズ』の第一作『海から来た流れ者』の中で主題歌として歌った『ダンチョネ節』は、明らかに軍国歌謡、兵隊歌謡の流れを汲んだものでしたが、その上に、民謡調の雰囲気まで加味されていました。この歌そのものの源は神奈川県民謡である「ダンチョネ節」だとする説もあるようですが、これも「小唄」と同様、巷で男たちに親しまれていた名も無い旋律が母体になり、土地土地で創られた替え歌の総称だと解釈したほうが良いのではないかと思います。

何故か主役は何処からとも無く、ギターを持って現れるのですね

  沖のカモメと 飛行機乗りは どこで散るやらね 果てるやら ダンチョネ

小林旭が映画主題歌として劇中で歌った「ダンチョネ節」は、曲様も歌詞もまったく新しい別な内容に変身していましたが、後半部分のメロディと若者の恋心を描いた主題は、戦場に赴き遂に帰ることの無かった人々が口ずさんだ「歌」そのものと何等変わる事のない切実さを表現しようとしていました。そして同じ年、昭和35年5月、日活が「海から来た流れ者」シリーズ第二弾として制作した『海を渡る波止場の風』という作品で小林旭は「海軍小唄」を下敷きにした『ズンドコ節』を、新しい恋歌の一つとして歌い上げ人気者としての地位を確立したのです。歌詞そのものは著作権の関係で紹介することは出来ませんが、歌われている主題は「若い二人」の「恋」であり、歌詞の一部に英語のフレーズが採用されていました。旭のズンドコ節に、桜花の影を見つけることは出来ません。連綿と続いてきた(肯定的であれ否定的であれ)はずの桜花への思い入れを歌に託す流れが途絶えてしまったのか?決してそうではありませんでした。

旭から、ほぼ10年、TVバラエティ番組で頭角を現し、お茶の間の、というか子供たちから絶大な人気を得ることになるザ・ドリフターズが三度『ドリフのズンドコ節』を昭和44年(1969)にリメーク、海軍「小唄」のフレーズを部分的にではありますが復活させたのです。ドリフの「ズンドコ節」は、明らかに作詞者の、なかにし礼がメンバー五人の演じるキャラクターを念頭に置いて歌詞を巧みに「演出」しているのですが、六番で全員が合唱する部分は「海軍小唄」の歌いだし部そのままでした。そこで歌われている対象は、小林旭の曲と同様に「娘」と「恋」であることに変わりありません。ただ一つ違っていたのは、メンバーのリーダー・いかりや長介(昭和6年生まれ)と荒井注(昭和3年生まれ)の二人が、十代の多感な時期に、実際の戦争を体験していた、つまり本物の「海軍小唄」を知っていた(歌っていた)世代に属していた、という事です。また、彼らの「ズンドコ節」が翌昭和45年12月、第二回日本レコード大賞大衆賞を受賞した事実は、この歌が、歌の内容が、歌われていた風景が一般大衆から大いに支持されていたことを如実に示していると思うのです。

さてさて、今回も終わりが近づきました。いくらなんでも、次はないだろう…、と誰もが思っていた平成十四年(2002)一人の、少し風変わりな衣装を身にまとった若者が『きよしのズンドコ節』を引っさげて登場し、小唄の伝統が引き継がれました。氷川きよしが歌う「ズンドコ節」にも「桜木」は登場していませんが、一番の歌詞には「花」という言葉が四回も使われており、聞く側の人には、それが「桜」であることが直感的に理解出来ます。そして「恋」が永遠のテーマであることも……。

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